ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

ブログはじめます

それは唐突のことだった。

「ご主人、はっきり言いますね。これはガンです。それも卵巣の」

妻の内診を終えて、彼女が着替え終わるのを待たずに診察室にもどってきた医師が私に向かって発した最初の言葉がそれだった。

ガン告知の場面というのは映画や小説などで何度も疑似体験していて、そういうお決まりの展開を見るとプロットが陳腐にさえ思えてくるほどだったが、何の心の準備もないときに現実としてふりかかってくると、ここまでうろたえるものかと思った。

さーっと頭から血が引いて頭の中が真っ白になっていく、あのひどい貧血のような感じとともに、心臓の鼓動が高まるのがわかった。医師の継ぐ言葉が遠ざかっていくのを感じながら、ここで大事なことを聞き逃すのはまずい、と、脂汗をかきながら、呼吸を荒げながら、なんとか正気をもちなおす。

のちに妻の主治医となる県立病院の婦人科H医師は、これは卵巣ガンである可能性が極めて高いこと、これからすぐに詳細な検査をやって、なるべく早くに手術が必要なこと、などを説明した。。。

このブログについて

このブログでは、私たち夫婦が卵巣がんの発見と治療を通じて感じたこと・調べたことを記録として残していく。暫定的にこの最初のポストを2015年1月1日付けとしてそれ以前の記録をまとめ、イベントのあった日にはその日のイベントを記録するという形式でやってみようと思う。すでに忘れかけていることも多いので随時加筆・修正していくことになるだろう。むろん、妻には許可をとってあるし、内容も確認してもらっている。

この病気の診断をうけてからたくさんの本、論文、闘病記などを読んだ。同じ経験をしている人がいることに勇気づけられもしたし、まだまだ足りない情報があるとも感じた。

ある一人の卵巣がん患者とその配偶者の立場から、その記録を公開することで、同じような境遇にあるどなたかの役に少しでも立てれば幸いである。

なお、2月中旬の時点で、妻は手術から順調に回復しており、幸運にも初期&低悪性度(ステージ1a(暫定)の未熟奇形腫グレード1および類内幕腺癌グレード1)という診断であったので、医師のすすめる追加の手術や抗がん剤もやらないと決め(そう判断した理由は追々書いていく)、毎日わたしの実家で両親と一緒に健康的な食事をしながら笑顔で過ごしている。

ガンになっちゃいました、と告白されたとき、友人たちが一番困るのが「声をかけてあげたいが、何をどう言えばいいのか?」ということであろう。これは、その人の置かれた状況や受け止め方、性格によるので画一的な答えはないと思う。しかしひとつだけ言えるのは、がん患者たちは何でもいいから一声かけて欲しいと思っている、ということだ。がん患者は、すでに自分だけが世界から切り離されたような孤独を感じている。だから、病気のせいで距離をおかれたりすると、ますます孤独を深めていくだろう。

しかしその一方で、がん患者のほうにも努力が必要かもしれない。置かれている状況、日常生活の制限、それらをどう受け止めているのか、などのインプットがなければ、友人たちも声をかけにくい。だから、声をかけやすくなるようなきっかけを作っていくことも大事だと思う。状況によっては難しいだろうけれど。。。

妻の場合、術後の後遺症がないことと明るい性格のおかげで、もはや病気だったことを忘れたかのような日常を過ごしている。心理的にどん底だったのは最初の一週間ぐらいで、そこからは急速に持ち直している。とはいえ、がんというのは生活習慣病だから、今までと同じ生活に戻ってしまうことイコール再発リスク激増だから、食生活や冷え対策など日常を根本的に見なおしてきている。このあたりについては追々書いていこうと思う。

もちろん、未来の心配が消えてなくなることはない。けれど、告知から手術を経てたった3-4週間ほどでほとんど以前と変わらない毎日を取り戻せたのは、ちょっと意外な発見だったかもしれない。

2014年12月までの経緯

かなり長くなるが、初診にいたるまでの経緯を振り返ってみる。

アメリカに引っ越すことが決まった2005年頃、30歳にさしかかっていた私たち夫婦は、日本にいるうちにひととおり健康診断を受けておこうということで、人間ドックや歯科検診などを受診していた。結果はほとんど全てにおいて健康体そのものだったのだが、唯一、妻が一人でいってきた婦人科検診だけ

子宮筋腫があるんだって。でも小さいから経過観察だと言われた」

とのことだった。その口ぶりから、まぁ大したことではないんだろうなと理解した。詳しいことは記憶にはないが、当時の自分の行動パターンを考えると、おそらく「子宮筋腫」で検索してみて、うん、たしかに大したものではなさそうだな、と安心していたのだろう。

渡米した後も、ときどきOB/GYNでマンモグラフィやパップスメアなどの婦人科検診をうけたが、そのたび「子宮になにかあるけど小さいので経過観察」と言われていた。このとき正確には「子宮」と言われたのか「卵巣」と言われたのか、記憶も記録も残っていない。当時はまだ何でもかんでも紙をスキャンして電子ファイルする習慣がなかった。ひとつだけはっきりしているのは、同じようなことを言われたから、あぁあれのことね、という予断が働いてしまい、詳しく診断内容を吟味することもなかったということだ。当時はまだ英語にも慣れておらず、とくに専門用語の多い医療英語にはできれば近づきたくなかったというのもあっただろうが、このことをのちに後悔することになる。

そしてサンフランシスコからラスベガスへと引っ越してしばらく経った2014年の2月、妻が体調を崩し、39度をこえる高熱を出したのでインフルエンザかもしれないとUrgent Careに駆け込んだ。そこで医師は横になった妻の腹部を指圧していき、右下腹部を押したときに痛がることに気がついた。再確認するように左下腹部を押してもなんともないのに、右下腹部をもう一度おしたらやっぱり痛がった。「Oh no」とうなった医師は、これはAppendicitis(虫垂炎)の可能性があるからER(救急病院)へ行け、と言った。

ERでは、あまり重病には見えない患者たちがたくさんいた。その順番待ちで数時間待たされたのち、診察台の上で大量の免責文書にサインさせられた。私が付き添っていたから良かったものの、高熱で意識が朦朧としている患者に正常な判断力が期待できない場合どうするのだろうとふと気になった。そして、CTスキャンを撮るため1リットル近くはあろうかという毒々しい黄色の造影剤を1時間かけて飲めと言われた。その拷問のような仕打ちのあと、さらに2時間ほど待たされてCTを済ませると、結果を手にした医師は早口に言った。

「これは虫垂炎ではない、発熱の原因は不明である、ついでながらCTにはOvarian Cyst(卵巣嚢胞)が写っているからOB/GYNで精査してもらえ、ではさようなら」

ちょっと待ってくれ今回の診察の目的は高熱で苦しいから来たのであってこれでは何も解決になってない、せめて薬ぐらい出してくれないのか?と食い下がると、ちょっと困ったような顔をして

「うちで出してもいいけど、すごく高いよ。そのへんの薬局で買ったほうがいいんじゃない?」

と、結局は追い返されたのだった。幸い、熱は翌日には下がったのだが、延べ6時間ほど待って待って待たされて何も解決しなかったどころか診察エリアが寒くて変なものまで飲まされてむしろ体調が悪くなって帰ってきたそのERから後ほど届いた請求が、保険前で約$20,000(約200万円)、保険後でも約$3,500(約35万円)だった。言いたいことは色々あるが、アメリカの医療制度がいかにぶっ壊れているかを愚痴るのがこのブログの趣旨ではないので割愛する。

話をもどすと、先ほどのCTの結果には、4.6 x 3.5cmのOvarian Cystが写っているとの所見があったのだが、ここでも「あぁはいはい、例の子宮筋腫ね」という予断が介入してきて、Ovarian=卵巣、Cyst=嚢胞という記述の食い違いについてなんとなく感じた違和感も、すぐに忘れてしまったのだった。

その翌月から、妻は近所にある日本人が経営する居酒屋で働くようになった。それからしばらくして、仕事の疲れがとれない、腰がいたい、歳かな?などとよく口にするようになった。もともとひどかった生理痛もさらに悪くなってきているようだった。そして半年ぐらいした10月頃、ニューヨークへの引っ越し準備のため仕事を辞めて、彼女の父親の三回忌のため帰省した。そのときにもすでに体の異変は起きていたはずなのだが、会っていた地元の友人や親族もだれ一人としてその変化には気づかなかった。

10月末にアメリカへ戻ってきた頃から、異変は目立つようになってきた。妻は太っていないのだが、おなかだけがぽっこり出てきていることを気にするようになった。11月に入ってから、腹部の痛みを訴えるようになった。子宮筋腫が悪くなってきてるのかもしれない、ということで、婦人科の病院を探したのだが、なんともタイミングの悪いことに、アメリカ版の皆保険制度であるオバマケアが混乱を極めている当時、入っていた医療保険が11月1日から勝手に切り替えられ、自由に病院を選べなくなっていた。

私たちが入っていた保険会社は最大手のひとつであるAnthem Blue Cross Blue Shieldだったのだが、自由に病院を選べるPPOというプランから、保険会社のネットワーク内の病院にかからないと一切保険でカバーされないHMOというプランに強制的に切り替えさせられており、PPOに戻すには2015年1月を待たねばならないという。ちなみにこれはとんでもないことで、のちにAnthemは訴訟を起こされることになるのだが、今すぐ医療サービスを必要としている私たちにとってはそれどころではなかった。CTスキャンだけで$20,000ドルの保険前請求という恐怖を経験した私たちにとって、保険なしで手術まで受けたらとんでもないことになるのは容易に想像がついた。

HMOの狭い選択肢の中からなんとかネットワーク内の婦人科病院を見つけ出し、保険のことについて何度も確認したのち、3週間後の予約をとりつけた。

そしてその予約日が迫った2日前になって、その病院から「やっぱりその保険では使えない」と電話があった。なぜ3週間も待たせてから連絡したのか、もっと早くに教えてくれなかったのか、と食い下がったが、もうどうにもならない。

12月に入ってから、さらに腹痛はひどくなってきていた。左下腹部にしこりがあって痛かったのが、だんだん真ん中へと移動しているようだった。頻尿になり、2-3時間おきにトイレに行くため、あまり熟睡できず、睡眠不足が続くようになった。Advilというアメリカで最も一般的な痛み止め(イブプロフェン200mg)の薬を毎日飲むようになった。

さらにいくつもの病院をまわった。何時間も電話をかけてまわったが新規に患者を受け付けているプライマリドクター(かかりつけ医)が一人もみつからなかったのと、まずはすぐにでも超音波で何が起きてるのかを診て欲しかったので、保険会社に問い合わせてネットワーク内のUrgent Careのリストをダウンロードした。そのリストに入っていて口コミサイトでの評判も悪くないところを順に片っ端から妻を連れてまわったが、最初のところでは保険証を見せるやいなや、けんもほろろに「うちでは扱ってない」と門前払いをくらった。そんなことはない、リストに入っている、と食い下がったが無駄だった。こういうときのアメリカ人の人を見下すような態度の冷たさといったら殺意を覚えるレベルである。

次に薬局チェーンWalgreensに付属しているwalk-inクリニックに行ってみると、そこでは初めて同情を示してくれ親身に相談にのってくれるドクターと出会えたのだが、ここでは超音波診断ができないということで、近所のUrgent Careのリストを「ここがいいと思うわ」と下線をひいて渡してくれた。しかし、保険会社のUCリストとつきあわせてみると、そこの名前はない。だめもとでそのUCに行ってみると、今度は逆に「この保険なら使える」と言われた。しかし、保険まわりのトラブルにはうんざりしていたので、「念のため保険会社に電話して確認して欲しい」と頼むと、「忙しいのでそんなことはできない」とあっさり断られた。

すごく悩んだが、受付の口約束だけを頼りにはできないと判断し、結局またリストから次の候補をあたることにした。すると、以前に虫垂炎の件で訪れたUCの名前が入っていることに気がついた。ようやく救われた、ここなら。。。と思い、駆け込んでみると、受付の人たちが妻の具合の悪そうな様子をちらっとみて、何やら奥で話し合ったあと「大きな病院に直接いったほうがいい」と、以前にERで行った病院の名前を出してきた。これは、今にして思えば重大な病気の可能性を考えて責任を回避するための行動だったのかも知れない。

もう疲労困憊でクタクタになっていたが、それでも何とかその病院の婦人科に駆け込んでみると、すぐに診てもらうにはERに行くしかない、とまたしても門前払い。そこのERには何もかもイヤな印象しか残ってないので、まるっきり振り出しに戻ってしまったことに絶望的な気持ちになりつつあった。

そろそろ潮時だと思い、切り出した。

「日本に帰ろう」

そこからは時間との勝負だった。なんとか年末の大晦日に到着するフライトがとれたが、それまでの2週間はひたすら耐えるしかない。

妻の具合は日に日に悪くなっていき、痛みはAdvilを規定用量の倍、2粒を4時間おきに飲み続けなければいけないほどになっていた。腹部の膨満感もピークで、妊娠四ヶ月ぐらいにお腹がふくれあがっていて、食べ物が喉を通りにくくなっていた。夜はベッドで横になって寝ると足の付根に激痛が走るようになり、ソファで座った姿勢のまま寝るようになった。さらに頻尿もひどくなり、1時間おきにトイレに行くのでほとんど眠れない状況が続いた。

そしてようやく迎えた大晦日、乗り継ぎ含めて延べ16時間ちかくのフライトの後、さらに4時間かけてうちの実家へ。私たちの不安を体現したかのような極寒の風雨が吹きすさぶ夜だった。

到着後、てばやく夕食をすませてから県立病院の救急外来へ駆け込んだ。年明けのカウントダウンはその待合室で迎えた。むろん、こんな時期に正規の婦人科医がいるはずもなく、診てくれたのはいかにも研修医といった感じの若い医師だった。超音波・CTをとって、「子宮というよりは卵巣じゃないですかねぇ」と言われたが、さほど確信がある様子でもなく、いずれにせよ病院側の体制として今すぐどうこうできる状況ではないので、正月明けの1月5日にまた来てください、ということになった。それからの4日間は人生で最も長く感じた4日間だった。

腹部の膨満感のため、こたつに入った姿勢すら維持できず、実家にあったロッキングチェアーに座って、向かいに置いた事務椅子に足をのせた姿勢でうとうと眠っていた。木造一戸建てで底冷えのする寒さの中、二枚の電気ひざ掛けをロッキングチェアーの上と下からサンドイッチにして体温が下がらないようにし、1時間おきにトイレへ行きつつ、長い長い夜をやりすごしていた。

そして迎えた1月5日、朝一番で母親に車で送ってもらい、県立病院へ向かった。やっと医者に診てもらえる。そのことのありがたさが身に染みた。

診察室に入って、経過観察中の子宮筋腫があること、おそらくそれが悪くなっていること、アメリカから一時帰国してきていることなどの経緯を話し、すぐに内診となり、ここで冒頭のH医師のセリフを耳にすることになったのである。

思い込みの怖さ

驚くべきは、確証バイアスの強固さと怖さである。これだけ症状が急速に進行していく情況証拠がそろっていたにもかかわらず、私は一度も妻の症状が「がん」である可能性など考えず、良性疾患だと信じて疑わなかった。妻自身は、2年前に父親を胃がんで失っていることもあり「ひょっとして。。。」と感じていたということを知ったのはずいぶんしてからのことである。

私は、うすうす悪い予感がありながらそれをかき消すようにふるまっていた、というのではなく、本当に医師から告知をうけるまで、その可能性を意識したことがなかった。「人間は見たいと欲する現実しか見ない」というユリウス・カエサルの言葉が、絶対的な重みをもって感じられた出来事だった。

初診のとき、H医師のコンピュータ画面には「卵巣Car疑い」という大晦日の研修医からのコメントがのっていた。それをみてもなお、私は「卵巣じゃなくて子宮でしょ。Carって何?CancerとかCarcinomaってこと?これだから研修医は。。。」などと思っていたのである。

自分のことをそれなりに理性的な人間であると自認していた私にとって、このときの完璧なまでに非論理的でディフェンシブな自分の心の働きは今でもうまく飲み込めていない。もしかしたら人間は、潜在的に底なしの恐怖を感じている可能性に関しては、無意識下に徹底して思考から排除するようにできているのだろうか。

過度の心配性もよくないが、良性だと強く信じ込んだために早期発見のチャンスを見逃すリスクもある。良性疾患の経過観察になっている人は、検診を欠かさないようにしてほしい。