初診
待ちに待った、年が明けて病院が診察を開始する最初の日。
8:15の診察開始に間に合うよう、朝一番で妻、母親、私の3人で車に乗り込み、40分かけて県立病院へ向かった。
大晦日に救急できたときに予約をとれなかったので、通常の外来として受付を済ませ、婦人科ブロックで数時間待ったあとようやく名前を呼ばれて診察室へ。
そこで初めて顔をあわせたH医師に、過去に子宮筋腫と診断されたことがあること、アメリカで適切な医療が受けられなかったため一時帰国してきたこと、現在の症状などについて話した。すると、H医師もアメリカにいたことがあるらしく、軽く話がはずむ。
「アメリカのどこにいるんですか?」
「ラスベガスです」
「あぁ、それは大変でしたね。わたしはフィラデルフィアにいたんですよ」
ひととおり経緯を話したところで、妻を連れて内診室へ。経膣超音波で診察しながら話しかける様子が診察室にひとり残された私のところにもかすかに聞こえてくる。
妻の内診を終えて戻ってきた医師は、先を急ぐように言った。
「ご主人、はっきり申し上げます。これは子宮ではなくて卵巣の腫瘍です。悪性の可能性が極めて高いと思います」
一瞬、空気が凍りついた。
かろうじて応答したが、二の句が継げなかった。あまりの衝撃に、しばらく頭が真っ白になって呼吸が苦しくなった。10秒ほど、医師の言葉が水中で聞こえる音のように遠ざかっていったが、これではまずい、とすぐに気を取り直し、大事な説明を一言も聞き漏らすまい、と身を乗り出した。
「アメリカへ帰るのは当分あきらめてください。3ヶ月から6ヶ月ぐらい治療の期間が必要になると思います」
すぐに追加の検査と手術の準備を進めましょうということで、その日のうちに採尿・採血・MRIを済ませてから再診という手はずとなった。
診察室の外で待ってくれていた母親に何と言えばよいか、すぐに言葉が見つからなかったが、かろうじて「滞在、長くなるかも」と漏らした。無言で「何があったの?」という顔をされたので、深呼吸のあと絞りだすようにして「卵巣ガンだって」これが精一杯だった。
苦労したのはMRIだ。足を伸ばした姿勢になると太腿の付根に激痛が走るので、撮影のため姿勢を固定するのが困難で、しかもパンパンになっていた腹部に重りまで乗せられて、「足を伸ばせない」と訴えたが聞き入れてもらえなかった。脂汗ダラダラでひたすら耐えるしかなく、この検査が一番苦痛だった、と妻は語った。
待つ間、私はネットで卵巣癌について調べまくっていた。あらゆるガンのなかでも発見が難しく予後がよくないというようなことばかり書かれていて、絶望的な気持ちになりかけた。
午後いっぱいかけて検査を終えて診察室に戻ると、そこには鮮明に、まるで胎児を孕んだ子宮のごとく異常に大きく膨れ上がった卵巣のMRI画像が表示されていた。腹腔内の臓器を押しのけてお腹いっぱいに広がり、骨盤側の仙骨に圧迫されてはちきれそうになっている卵巣の画像をみたときには、軽く目眩すら覚えた。この視覚的なインパクトは大きく、最悪の事態を予感せざるをえなかった。
その卵巣の境界線、つまり皮の内側から飛び出た小さな突起様の部分を指さしながらH医師は、
「この壁在結節がおそらく卵巣癌、明細胞腺癌あるいは類内幕腺癌だと思います。」
「奥さんの生理痛がきつかったのは、おそらく子宮内膜症があったのでしょう。内膜症で蓄積した古い血液には、高濃度の鉄分が含まれています。鉄はフリーラジカルを誘発しますから、これが遺伝子を傷つけてガン細胞を生み出すと言われています」
理路整然としたH医師の説明に蒙を啓かれた思いだった。と同時に、もっと早くにそこまで知っていれば、こんなことにはならなかったかも知れない。。。というむなしい悔しさもこみ上げてきた。
次に画面を切り替えて血液検査の数値を表示しながら、
「腫瘍マーカーの値も高いです。CA125とCA19-9、これは卵巣癌に特異的なマーカーなのですが、高くなっていますね。他にLDHの値も少し高いです」
さらに、内側の大きな空洞部分をさして「この白い部分はおそらく血液」、次に前方の腹部側にある巨大な黒い影をさして「この部分の正体はよくわかりません。脂肪成分があるようですが。。。」といった。
さらに続けて、
「卵巣の輪郭は綺麗にでてますね。周辺臓器との癒着はなさそうなので、綺麗にとれると思います」
「卵巣癌と診断がついた場合は、両側付属器(卵管、卵巣)摘出、子宮全摘、大網というお腹にぶらさがった脂肪の膜を切除、それから(両足の付根からみぞおちのあたりまでを示しながら)ここからここまでのリンパ節を全部とるのが標準術式です。恥骨からみぞおちまで切って開腹するので傷跡は大きく残りますが、腫れた卵巣を破らないようにそーっと取り出す必要があるので大きく切ってやる必要があります」
正直、この時点ではそれぞれの言葉の意味もよくわからなかったが、H医師が身振り手振りで示す領域のあまりの広さに、体中を切りまくるイメージが浮かんで正気を保つのも難しく、メモをとるのに必死で、告知のショックに打ちのめされる余裕すらなかった。
ふと心配になって横を向くと、深刻な顔でひたすらうなずく妻の顔があった。
「手術の予約は2ヶ月先まで埋まってましたが、急遽、各方面と調整して16日に手術できることになりました。14日から29日まで入院してください。8日にPET-CTをとりましょう」
あっという間にスケジュールが決まっていった。心の整理もつかないままだったが、もとより手術の必要性は明らかだったので、日程を早くに入れてくれたことはありがたかった。
処方された薬はセレコックスとマグミット。
すべての診察が終わるともう17時過ぎ、会計も正面入口も閉まっていた。処方箋を持って薬局へ駆け込んだ。
帰宅してから、怒涛の勢いで卵巣がんとの戦いに向けたリサーチがはじまった。まずは10冊ほど書籍をAmazonで注文し、仕事仲間にメールで病気のことを説明し、しばらく妻のサポートとリサーチのため時間がほしいと伝えた。
この夜の絶望的な気持ちは、今でも忘れられない。最悪の事態ばかり頭に浮かんでは恐怖した。妻は相変わらず横になって寝ることができず、電気毛布を敷いたロッキングチェアーで仮眠をとり、1時間おきにトイレ、4時間おきに高用量の痛み止めを飲み続けていた。
手術の日程が決まったのは良かったが、あと2週間近く待たなければいけない。病状は次第に悪くなっている。それまでに容態が急変したらどうなるのだろう、と心配する日々がはじまった。