ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

生理予定日と妻への裏切り

今日は、本来なら生理予定日。

しかし卵巣と子宮をとってしまった妻には、もう関係のないイベントとなってしまった。

明け方4amぐらいに薬を飲む。

そのあとのどこかの時間でナースが採血に来た。3本ほど採っていく。寝ぼけながらきくと、どうやら腫瘍マーカーなどではなく血栓のリスク?などを見る感じの様子。

痛みで背中をベッドにこすり合わせるため、背腰部に貼っていたFentanylパッチがめくれて半分に折れてくっついてしまっていた。これをナースが手ではがし、左ふとももに貼り直す。

次に目がさめたのは8am。ドクターWがきて、病理の中間報告。

どうもリンパ腫ではなく上皮性卵巣がんでもなく、消去法的にいくと未熟奇形腫の可能性が高いと説明する。腫瘍の成長速度が速すぎるのもこれで説明がつく。治療の期間も長くなり、8ヶ月ぐらいといわれる。

久々にルームサービスでブルーベリーマフィンとオレンジと紅茶をオーダー。オレンジは缶詰。ブルーベリーマフィンは袋入り。やっぱり自分で食堂から持ってきたほうがよさそう。

めまぐるしく状況が変わる。改めてピンク本を読むが、胚細胞腫瘍についてはあまり記述がない。

お昼頃、H先生が日本から送ってくれたプレパラートが届いたとDHLから通知がくる。

1pm頃にGreenlandとSproutsで買い物(ブロッコリー、オレンジ、鶏もも肉、バナナ、米、冷凍うどん、さんま、塩さば)をしてから帰宅し、プレパラートをピックアップ。

つくってもらった弁当をもって、いつものようにクリスタルガイザーを4本詰め込んでティッシュやナプキン、バナナ、オレンジなどを補充して急ぎ戻る。

今日は痛みが強く長く続いているらしく、4pmに戻るとDilaudidの注射をしたばかりだった。インド人の内科医がきたので「痛み止めの効きが悪い」とうったえてHydromorphone錠剤を2mg x 2を4時間おきで使えるように増量してもらう。

ナースは、痛みを緩和するためにも歩こうとすすめるが、妻がどうしても動こうとしない。歩かなければ便意もでず、便がでなければ余計に腹が張って腹圧が高くなって痛みが増す。痛くなるので痛み止めをのんで副作用で便秘になる。どこまでも悪循環だ。Colaceももらったらしいが便がでないのでDulcolaxを出してもらう。しかし、動いてないので便意はこない。

夜になってもこの状態が続き、持って帰った食事にも手を付けない。

イライラがピークに達しているようで、私が何を言ってもすぐに遮り、ほっといて、と連呼するばかりで、聞く耳をもたない。そこで、「そっとしといてほしいなら帰るから。また明日ね」と荷物をまとめて帰るフリをした。実際には、ノートパソコンを持ちだして下のフロアで少し仕事をしてこようと考えただけだった。

ところが、これがとんでもない地雷を踏んでしまったらしく、妻の顔がみるみるうちに不安でいっぱいになり、「ただそっとしておいて欲しかっただけなのに!」と、これまでに見たことがないほど身を震わせて大泣きしてベッドの上をのたうちまわる。あわててフォローするが手遅れ。泣きすぎてお腹の傷まで開いてきて痛いという。

このときの目を大きく見開いて恐怖におののく妻の顔が忘れられない。誰よりも信じていた人間に裏切られたというような、絶望を感じた瞬間の目だった。私は、このときのことがある種のトラウマになっている。私に与えられた唯一の役割は、妻の不安をできるかぎり取り除くことだった。その私が、妻をこれまで見たことがないほどの不安のどん底に突き落としてしまった。このときのことが、このあともずっと私に対する不信感として心のどこかに残っていたのではないかと、思い出すたびに申し訳なさと不甲斐なさで胸がいっぱいになり、涙が止まらなくなってしまう。

落ち着いた頃、妻を立たせて腹帯を締め直し、ベッドを離れている間にナースをよんでシーツやガウンを交換してもらう。この日のナースはめずらしく若い白人男性のAdam。とてもよく気がつくナイスガイ。

結局、劇薬は効いたらしく、起き上がって椅子をつかって前屈姿勢で体操。ようやく今日はじめて体を動かしてくれた。

9pm頃、落ち着いて弁当を食べ始める。

友人のTさんにお願いして、明日、母を病院へ連れてきてもらうことに。

妻の調子も落ち着いてきた様子でホッとする。