ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

いよいよ退院、夫婦喧嘩

4:30am頃、Roxicodone錠剤とステロイド。背中に痛みというよりは違和感をうったえる。

やや頻尿と違和感、ごく少量の血がトイレットペーパーにつくことを訴えると、尿路感染症の可能性があるので検査することに。

8:30am頃、仕事の電話で起こされる。

9am、ようやく病院のケースマネージャJaniceと話ができ、治療履歴、保険、請求、今後の連絡方法などについて話し合う。

10:00am、Fentanylパッチ貼り替え。日付が読みにくいのでメモしておく。Lidocaine 5%パッチも張り替える。

11:00am、いよいよ日本通運と引っ越しについて電話でやりとりし、急遽、明日ピックアップにきてもらうことに。

11:30am、以前からお願いしていたsurgical report(手術時所見レポート)をようやく病院のケースマネージャから受け取る。

12:30pm、CVポートのdressingを外し、退院について案内を受ける。

1:30pm、処方箋を受け取りに病院の一階に入っているWalgreensへ。

2pm、コンドミニアムのスタッフJasonから電話があり、明日の引っ越しについて話し合う。

自宅のある高層コンドミニアムはルールが厳しく、引っ越しをする日は事前にスタッフに知らせて搬出用エレベータを予約し、セキュリティデポジットとして$1,000分の小切手を預けておかなければいけない(壁に穴をあけるなどのトラブルなく完了すれば破棄される)。

2:30pm、なかなか病理診断の結果が出ないことに業を煮やし、病院のラボ病棟にある病理部へ直談判に行く。

ラボのスタッフに聞いてわかったことだが、病理セカンドオピニオンの送付先はサンフランシスコにある世界有数の医学専門大学UCSFとのこと。サンフランシスコに住んでいた当時、何度か妻とUCSFのキャンパスやカフェテリアに遊びに行ったことがあり、その名前には親しみがあった。

しかし、当病院サイドの責任者であるドクターKが休暇中でいないため、今週中には結果が出ないかもしれないと言われてしまう。

医師も人間だから休暇も必要であることは頭では理解できるが、その結果が出るまでは治療方針が決められず、その間にも日々刻々と病状がどんどん進行していく患者としては、このタイミングで一週間も休まれてしまうのは、とてももどかしい。

ただ不幸中の幸いで、ここのラボのスタッフCJはとても親切で、退院して日本に帰国したあとも直接このラボに連絡がつくように、電話番号とFAX番号を教えてくれた。普通なら、ラボの直通電話番号を一般患者に教えるということはありえない。私たちの特殊事情に理解を示してくれ、かなり好意的な対応をしてくれていると感じた。

また、ついでに日本の病院から貸出されている病理スライドがどこへ行ったのかたずねると、以前にドクターWから返却してもらった梱包パッケージにここで手術した時の病理スライドと一緒に入っているから、日本の病院に入院するときにそれを渡せばよいという。

3:30pm、退院用の処方薬を受け取る。日本への移動も見越して余裕をもたせて30日分あり、巨大なダンボール箱で5kgぐらいある。実際にはこんな重量を飛行機に持ち込むことはできないので、液体の緩下剤はほとんど全部処分していくことになるだろう。処方する医師も医師で、どのぐらいの重量になるかちょっとは考えて処方して欲しいものだが。。。。

しかも、一番肝心の鎮痛レスキュー薬であるFentanylのロリポップは保険の承認が間に合わず、明後日の水曜日の朝に再度ここに受け取りにくることになった。

自宅から高速道路で時速160kmでぶっとばして30分弱の距離なので、数日後に帰国を控えてやることが無限にあるギリギリのスケジュールではそれなりのタイムロスになる。

4pm、いよいよ退院。久々に自分の洋服に着替える。

自らもがんサバイバーであるナースのJayが車椅子で入り口まで送ってくれる。立ち上がるとき、妻にハグしてくれる。

病気が治っての退院ではなく、本当の勝負はこれからなのだ。自然と3人の目に涙がうかぶ。

4:30pm、自宅到着。

久々の再会に飛び跳ねて出迎えてくれた愛犬の姿をみて、思わず泣き崩れる妻。

生後2ヶ月で我が家の家族として迎え入れてからの12年、妻はかたときも愛犬と離れたことがなかった。いつも、どこへ行くのにも一緒だった。東京の二子玉川のペットショップで働いているときには毎日職場に連れて行き、アメリカにきてからも旅行はもちろん、レストランや映画館にもこっそりカバンに入れて連れて行っていた。今回の入院が愛犬と二週間以上も離れ離れになる初めての経験だったのだ。

しかし、感傷にひたっている暇もなく、妻にはソファで横になってもらい、母が床に広げて準備してくれていた妻の洋服を仕分け開始。妻はソファの上から指示を出す。

妻と私は、二人とも質素かつシンプルな「ものを持たない」生活が好みで、普段から極力ものを買わない・増やさない・捨てるを心がけていた。世界中のいろんなところで暮らしてみたい、そのためには身軽でなくてはいけない、という思いが二人の共通した考え方だった。しかし、だからこそ、いまも残っているのはそれなりの思い入れがあるものが多く、入院中に母と私で荷物の処分方法についてビデオチャットで話しているのを、すごく嫌がったことがあった。私は、おおざっぱにいって今自宅に残されているもののうち半分ぐらいは処分しなければいけないと見積もっていた。しかし、他人の持ち物の重要度というのは、どうしても過小評価しがちだ。

だから、妻の持ち物については、本人も大変だろうが、すべて妻本人に見てもらって処遇を決めることにしたのだ。

しかし、妻も私もピリピリしていて、ちょっとしたことが気に障り、めったにしない夫婦喧嘩のような口調になってしまう。

5:30pm、滑り込みで図書館への追加の寄付とレンタルガレージに車の所有権証明書を持っていくのに間に合う。

このとき、妻が私に電話をしているときの強い口調に、母が驚いた。妻は普段おっとりした性格で、こんなふうに私にきつい命令口調でものを言う姿を見たことがなかったのだ。もちろん、夫婦が長く暮らしていれば、この程度の口論はあって普通だし、特別だとは思わない。しかし、嫁のために頑張っている息子に向かってこんな口の聞き方をする嫁には納得できない、と漏らす母の言葉は、正直な心情だったのだと思う。夫婦のことというのは、本人たちにしかわからない世界なのだ。

その後はひたすら日通で送る引っ越し荷物のパッキング。明日には集荷にくるので、それまでに絶対に終わらせねばならない。

ところが、整理が進むにつれ、妻の荷物が不当に多いことに気がつく。私自身の衣類は、どんどん捨てて大きめの段ボール箱ひとつにほぼ収めたが、妻の持ち物がぜんぜん片付いていない。

もう明日には荷物を運び出すというのに切迫感が感じられず、とうとう堪忍袋の緒が切れて「こんなもんいらんやろ!」と大声をあげながら妻の荷物を片っ端からひっくり返していく。「真面目にやれ!」と言って、どう考えても日本に持って帰る必然性の感じられないものを見つけては、ゴミ箱に投げつける。

私がキレたことで、いろんなものを勝手に捨てられてしまうと思った妻が、「もうわかったからやめて!」と涙声で訴える。母が仲裁に入って「Iちゃん、これ一緒にもう一回片付けようね」と助け舟を出す。

重病人を相手にキレてしまうというのは、自分でも不当だと思う。しかし、その重病人の今後のために引っ越しをしようというときに、私自身がいろいろなものへの未練を断ち切って処分を決めているそばで、持ち物への執着が捨てられない妻に苛立ちを感じたのも確かだ。

こういうときの心理は、筆舌に尽くしがたい。

7pm、母のつくった夕食を食べる。冷蔵庫の整理も兼ねて、冷凍うどんなど。

その後、さらにパッキングを続ける。

同時に書類や処方箋を整理。

せっかくいただいた薬だが、重たい液体の緩下剤など重要性の低いものは即処分。

定期的に投与していたステロイドは、急に止めるとリバウンドしてしまうので、漸減する処方になっている。

9:30pm、段ボール箱に内容物を書くための油性ペンを買いにCVSへ。ついでに行きつけのARIA Resortで明日の朝用のパンを買ってくる。

あとで聞いた話だが、0am頃、大量の下痢をしたらしい。