ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

日本に到着、偶然の再会

アメリカ西海岸(ラスベガスやサンフランシスコ)と日本のあいだには、16時間(冬季は17時間)の時差がある。

したがって、アメリカから日本へ飛ぶと、ある日の朝に飛んだつもりが、着くと翌日の夕方になっていて、まる一日を失ったような錯覚におちいる。逆に日本からアメリカに飛ぶときは、昼に飛んだはずが同じ日の朝に着いたりして、過去にタイムトリップしたかのような気分になることもある。

今回は、アメリカ西海岸時間で5月7日(木)の朝に出発して日本時間で5月8日(金)の夕方に着く、前者のパターンだ。実際の移動時間は、ラスベガス空港から関空までで17時間となる。

予定通り3pmに関空へ到着すると、すぐに日本人のアシスタントが車椅子で出迎えてくれた。

ここへきて、ようやく妻を日本に連れて帰るという一大ミッションを成し遂げることができたという感慨もある一方で、もう二人でアメリカに戻ることはできないかもしれない、という思いもあり、複雑な感情に胸が押しつぶされそうになる。

いや、それどころではない。本当の戦いはこれからなのだ。

空港へは、妻の弟と私の父が迎えに来てくれることになっているので、電話で到着を知らせる。

妻と母にはカルーセルのところで待機してもらい、まず愛犬の検疫の手続きに向かう。事前の準備が万端だったおかげで、簡単な全身の健康状態チェックと、首をスキャンして二つあるマイクロチップの番号を確認し、すぐに完了する。

荷物がカルーセルから出てくるのを待つ間に、見覚えのある顔の人が話しかけてくる。

ふと見ると、なんと妻がラスベガスの居酒屋で働いているとき、そこでメインシェフをやっていたMさんだ。

ほんとうなら、こんな偶然の再会を喜びたいところだが、妻は疲れと痛みがピークに達していて、車椅子から顔を上げることさえできない。

私は、妻を職場に送迎したときなど、何度かMさんと軽い会釈を交わしたことはあったが、直接話したことはなかった。しかし、妻からMさんについての話は色々と聞かされていたので、身近に感じていた。なんでも、私たちと同い年で、私たちが京都にいた頃には京都の料亭で働いていて、当時妻が働いていた四条烏丸の大丸の地下にあるDONQというミニクロワッサンのお店のことも知っていた。実は当時にも会ってたかもしれないねー、なんて話をしていたそうだ。

しかし、急なことで、どうフォローすればいいのかわからない。経緯を話すと長くなるし、妻を一刻もはやく車に乗せて連れて帰ってあげたい。対応に困っていると、車椅子に倒れこんでいる妻の様子を見て察するところがあったのか、結局、ほとんど会話らしい会話をすることもなく、Mさんは離れて行ってしまった。

到着ゲートをくぐって外に出て義弟と父に会って妻を託すと、私はすぐに空港の外へ、愛犬をトイレに連れて行った。サンフランシスコ以来、約15時間ぶりのトイレだ。いつもは妻が面倒をみてくれていた愛犬の世話を、今はぜんぶ自分がやらないといけない。義弟と父という協力者がきてくれただけでも、日本に帰ってきてよかったと思える。

車は、父の車に母が乗り、義弟の車の後部座席に妻、助手席に私が乗ることになった。車椅子のアシスタントには、義弟の車に妻を乗せるまで一緒にきてもらう。後部座席全体をつかって横になれるようにし、クッション類を敷き詰めていく。関空から香川県の私の実家まで、明石海峡大橋をわたって淡路島を経由して、車で3時間。「これから3時間つらいけど、あとすこしの我慢やで」と妻の弾性ストッキングのしわをのばしながら声をかける。

移動中、義弟とこれまでのできごとを話しながら、ネットで今後想定される治療のことについて調査を再開する。ここ数日は、どうやって帰国するかに全てのエネルギーを注いできていたので、ようやく治療内容そのものに注意を向けられるようになったのだ。

病院へは、5月11日(月)に入院することになっている。今日からの3日間、この週末をどう乗り越えるかが勝負だ。