ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

恩師のお見舞い

妻の体温はようやく36.6度に下がった。

しかし、私の方の体調が微妙に思わしくない。おそらく最近は冷房をつけたまま寝ているからだろう。UPXのマルチビタミンとキューピーコーワゴールドを服用。

朝食はたまごサンドイッチ1/4、かぼちゃのスープ、カロリーメイト缶半分、メロンパン半分。メコバラミンとウルソも継続中。

ひょうたん型風船でリハビリ10分。

昼まで談話室で仕事しているうちに、また排便があったらしい。これで二日連続の自然排便。固くて小さめの便が二個。けっこう気張ったようだ。

昼食は小さなおうどん、バニラもなか、カロリーメイト缶の残り、ひがさのとんかつ一切れ。

その後、リハビリの歩行器を使って立ち上がり静止1分を7セット。やはり立っているだけでかなり疲れるが、少しづつ長く立っていられるように。

2pm前、アメリカから来日中の恩師が見舞いに病室まできてくれた。

恩師は、2005年にカリフォルニアへ渡ったときに現地でお世話になった方で、ひとかたならぬご縁があった。一回り年上だが、子供がいないご夫婦で犬を飼っているという共通点もあってか、よく一緒にお食事に連れ出していただいたり、Los Altosにある豪邸にお呼ばれしたりしていた。

ところが、ちょうど東日本大震災のころ、恩師の奥様が亡くなられた。あまりに突然のことで、ショック状態に陥っていた恩師は20年を過ごしたアメリカを離れて家族に連れられて日本に帰国し、心のケアを受けられていた。そうするにあたって、アメリカに残していく犬の世話をどうするかが最大の問題だったのだが(アメリカから日本に犬を連れて行くのは半年前からの準備が必要である)、サンフランシスコに住んでいるけれどもリモートで働いていて、どこでも暮らせる私たち夫婦が愛犬を連れてその豪邸に住み込んで恩師の犬の世話をすることになった。

恩師の犬はもうかなりの老齢で、老い先は短いとわかっていたので、自分の力で裏庭にでてトイレができなくなったら安楽死させようと夫婦で決めていた、かかりつけの動物病院はここ、このぐらいの頻度でドッグフードとリンゴをあげて、一日にこれぐらいの頻度でトイレに出して、などと、私達がいざというときの判断に困らないような情報はひととおり提供してもらっていた。毎週この曜日のこの時間には庭師がくるとか、この日はメイドサービスが掃除にくるとか、この日にゴミを出すとか、お金のかかることはこの代理人にとか、そういったことも含めてだ。

地元の共通の友人たちとも協力しあいながら、3月から4月にかけてのポカポカとおだやかな日々を、わたしたち夫婦と愛犬はその豪邸で暮らした。恩師は、こんなことをお願いするというので大いに恩義を感じてくださっていたようだが、わたしたちからすれば、何の負担もなかった。恩師の犬は大型犬だがやさしい性格なのでうちの犬嫌いの愛犬とも適度な距離をおいてくれるし、トイレは自分で庭に出てするし、ほとんど手がかからなかった。

何より、妻は東京ではペットショップで働いていたぐらい犬の世話が好きなので、我が子が二人になったかのようで、むしろ喜んでいたように思う。

こうして、いつ終わるともしれない仮住まいでの生活が始まったのだが、終わりは思ったよりも早くおとずれた。

恩師の犬の体調がみるみる悪くなっていったのだ。それもそのはず、それまでずっと面倒をみてくれていた飼い主がいきなり二人ともいなくなってしまったのだ。態度ではわからないが、ストレスを感じていたのだろう。結局、4月の末になる頃、家の中で失禁するようになり、自力で立てなくなっていき、動物病院につれていくと、かかりつけのドクターがこの子はもう肝臓の数値も悪くなっていてもう寿命だから安楽死させてあげてはどうかと提案してきた。いったん入院させてもらって翌日まで結論を持ち越し、共通の友人達にも相談して、もともと恩師は自力でトイレに行けなくなったら安楽死させるつもりだったと聞かされていたので、恩師に伝えるかどうかはあとで考えるとして、この子を楽にしてあげようということになった。

私たち夫婦で交互に何度もハグしながら、筋弛緩剤が注射されて力が抜けていくのを見守った。そして数日後、灰になったその子を、恩師の奥様の骨壷の隣に置いた。恩師の愛犬と過ごした日々の日記を、記憶があざやかなうちに書いてご家族に送った。ご家族は、この内容はまだ見せられる心理状態ではないということで、私たちから手紙を預かっているから読めるようになったら読んでほしい、そして犬が亡くなったという事実だけは伝えたほうがいいだろうということになった。すると、恩師もひとつ心のひっかかりがとれたようで、悲しさもあるけれども、いつまでも私たちにこのような生活をお願いしつづけることはできないという思いが負担にもなっていたから、思ったよりも冷静に受け止めることができたようだった。そしてそれから数日後、家の鍵を代理人に引き渡し、私たちは自分たちの家へと引き返した。

私たち夫婦は、たった2ヶ月のあいだに、奥様とその愛犬と、ふたつの命をともに見送った。非日常的で、とても静かで、ポカポカと温かい陽気の季節を、恩師の家で命のことを考える霊的な時間を過ごした。当時は福島原発のニュースもずっとやっていたから、それも含めて、私たちはあのときはじめて、命というものの重みと、はかないほどの軽さという矛盾した二面性に向き合わざるをえなかった。

その恩師は、それから数年後に立ち直り、再婚し、つい2-3ヶ月前にニューヨークへ引っ越した。思い出の詰まりすぎたあの家は、もう住むにはつらすぎるということで、手放してしまった。ちょうど私たちも同じ時期に仕事の関係でニューヨークへ引っ越す予定だったので、妻の病気が発覚する以前から、あちらで会いましょうという話になっていたのだ。

だいぶ話がそれたが、そんな命をかけた絶望のふちを共に歩いてきた恩師が、ニューヨークから妻のお見舞いにきてくれている。妻は幼馴染や家族でさえお見舞いに来てもらうのを渋っていたが、恩師は特別だった。

その恩師は奥様が亡くなったあと、数年後に再婚したわけなので、そのことが今の妻にとってどのような心象風景を描いたのかはわからない。もしかしたら、自分がいなくなったあとの私を重ねてみたりしただろうか。昔からオノ・ヨーコが再婚していないことをたびたび話題にするような人だったから、気にならないはずはない。しかし、あのときの恩師の悲しみと苦しみをその目で見ていたから、私たちはこの機会に会っておくべきだ、と思ったのかもしれない。

そんな恩師と、妻もしっかりと話ができて、元気になったらニューヨークで会いましょうという約束をした。

そして妻が疲れてしまってもいけないので、私と恩師は談話室に移動して話を続けた。もう少し具体的な相談として、日本に滞在しつつ米国の永住権を維持する方法についても相談に乗っていただいた。米国永住者でありながら急な事情で日本に帰ってきたという状況まで同じなのだ。

夕方からJ-POPの音楽番組をYouTubeで。

夕食は弁当を1/4、味噌汁、野菜ジュース。ウルソとメコバラミン

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8pm、体温は少し上がって37.1度。エストラーナテープ貼り替え、タペンタ。

10pm就寝。

0am頃、トイレで起き上がるが半眠り状態だったので記憶はないらしい。

3am頃、割とはっきり目が覚めたのでデジレルを追加。

1時間ほど起きていたが、そのあとまた眠り、6amまで。計7時間ぐらい睡眠。