ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

本庶佑氏のノーベル賞受賞に思うこと

今週、京大特別教授の本庶佑氏がノーベル賞医学生理学賞を受賞したことで世間が騒がしくなっています。

個人的にも、この受賞はとても感慨深いものでした。

このブログを見て下さっている方なら、私たちが闘病のなかでもう治療の手段がないという段階に至ったとき、抗PD-1抗体の免疫チェックポイント阻害薬であるオプジーボの存在を知り、なんとかこれに最後の希望を託そうと駆け回ったものの、小野薬品に販売を断られ、決死の思いでBMS版をスイスから個人輸入して投与したという経緯があったことをご存知かもしれません。

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これは、実際に我が家に送られてきた現物です。これを添付文書の指示どおりの温度で冷蔵保存し、投与の日に備えていました。

しかし2014年から2015年にかけての当時、オプジーボはメラノーマに承認されたばかりで、ほとんどの医師もその存在を知らず、一度は投与をOKしてくれた医師に土壇場で断られたり、このブログに書いてきたさまざまな運命に翻弄されつつ、ようやく投与することができたのは妻の亡くなる2日前でした。

あの頃は知識も経験もなく、ただ必死で、妻が0.001%でも助かる可能性に賭けたいという思いから、そして「最後まで諦めない」という妻との約束を果たすため、衰弱していく妻をみて自分の精神もすり減っていくのを感じながら、オプジーボで奇跡が起きる希望にすがっていたのでした。

当時でも、免疫チェックポイント阻害薬は抗がん剤のような即効性はなく、効いてくるまでには1-2ヶ月ほどかかることはすでに明らかになっていて、そもそも免疫が仕事をするのだから体力があるうちに投与しないと間に合わない可能性が高いことは感じていたのですが、それを認めたくない気持ちと、がんばってくれている妻のためにも、ただ必死でした。

今にして思えば、PPI (Palliative Prognostic Index) のような予後予測の基準に従えば、もう生命力を取り戻す可能性がある段階はとうに超えていて、余命がもはや週単位であったことは明白で、妻につらい思いをさせる積極的な治療はするべきではなかったと思います。今でもそのことを思い出すと胸が苦しくなります。

しかし、そのことを知っている看護師さんたちも、ドクターも、そして妻本人も、どうしても死をじっと待つことができない私の気持ちを汲んでか、全員が一体になってサポートしてくれました。婦人科領域でのオプジーボはまだ京都大学の濱西先生がリードしている第2相の臨床試験の段階で、臨床的には時期尚早なのに、忙しいなか論文を読み、学会での報告を聞きに行ってくれたドクター。妻の日々を支えてくれた医療者の皆さんには、本当に心の底から感謝の気持ちしかありません。

あまりに必死で周りが見えなくなっている私を心配して看護師のOさんに呼び出され、「奥さんの状態についてどのように受け止めていますか?」と聞かれたときのこともよく覚えています。あのときも、「これは死を受け入れる心の準備をせよ、という意味なのだろうな」と感じました。しかし、限りなく0%に近い見込みであることは自分自身で調べ尽くした結論としても十分にわかっていたのですが、頭ではわかっていても気持ちがついてこなかったのです。

「最後まで諦めない」という約束が、ある種の呪縛となって、死後のことについて妻本人とは最後まで話し合うことができませんでした。自分の死後に何をどのようにしてほしい?最期のときが近づくのを感じるにつれ、その質問が、喉元まで出かかっては飲み込みました。

私たちは10代の頃から人生の半分以上をともに過ごしてきたのだから、お互いのことは自分のこと以上によくわかっているつもりでしたが、それでももしかしたら、思いもしないような、この瞬間にしか言えないような秘めた願いがあったのかもしれない。もしかしたら私たちが知り合う以前、高校時代に付き合っていた元カレにも自分の境遇を伝えて欲しかったのではないか?などと詮無いことまで考えて、妻の死後、連絡をとろうかと真剣に悩んだりもしました。

いや、それはむしろ、妻の死を同じように悲しんでくれる仲間をとにかく手当たり次第に探したいという、自己中心的な気持ちだったのかもしれません。

しかし、慈愛にあふれた妻のことだから、何よりも心残りなのは家族のことだろう、という確信はありました。とくに義父の亡くなった2012年から一人になった義母のことを心配し、いつも実家に戻っては体の不自由な義母のかわりに大掃除をしたり家のことを手伝っていました。だから、その妻の思いやりを私が受け継いで、ときどき大阪の実家に寄っては掃除や植木の剪定などをしつつ、義母や義弟との時間をずっと大切にしています。また、そのような形で妻の生きた日々を受け継げることが、とても愛おしく、ありがたく思っています。

妻は私にとって妻であり、恋人であると同時に、変な話ですが、自分の娘のようでもあり、母のようでもあり、自分にとって大切な存在の全てを兼ねたような存在でした。京都で知り合い、東京、そしてアメリカへと、二人三脚でどこまでも大冒険してきたのです。血のつながった実の家族以上、自分の生命以上に大切に思う存在が自分の人生に登場してくるなどとは思いもしませんでしたが、自分が彼女の人生を守ってあげなければいけない、という気持ちでずっと生きてきたことで、そのような気持ちを持つようになっていました。

妻の死後、私自身の人生は色彩を失い、意味を見いだせなくなりました。

四十九日が明けてすぐに四国八十八ヶ所の遍路の旅に出発し、行く先々で同じような境遇の見知らぬ人々と語ることが癒やしになることも知りました。仏教という宗教の存在についても、人生ではじめて真剣に考えました。

あれから3年がたった現在も、いまだに心には大きな傷跡を残しており、いろいろなことがうまく回らなくなっていますが、あれからもずっとがん治療に関わる最新の研究論文をはじめ、医学にまつわる様々な論文を読み続けています。

そして生活習慣も大きく変わり、万年運動不足だった自分が週に3回はジムに通ってハードな筋トレを行うようになり、食事もまるで自分の体を実験台にするかのように健康志向のものになりました。妻と私は食いしん坊で、サンフランシスコやラスベガスにある主要なレストランはほぼ制覇したと言えるほどでしたが、そのような美食に対する欲求は封印し、今では鶏胸肉とブロッコリーを味付けなしでも毎日食べ続けることができるようになりました。

このように健康の知識を身に着け、修行僧のように実践することが、この過酷な天命に対する復讐なのか、誰よりも幸せにしたかった妻につらい思いをさせてしまったことへの懺悔なのか、行き場を失った愛の魂の叫びなのか、それは自分でもわかりませんが、あの闘病の日々が自分を変えてしまったのは確かです。

そして2017年末あたりから、Quoraというシリコンバレー発のQ&Aサイトで、主に自分が健康や医療について学んできたことを書き込みするようになりました。自分自身の闘病を支える日々で感じたこと、がん患者やその家族が陥りがちな罠、そして最新の医学研究の内容について、できるかぎり平易な言葉でわかりやすく、発信していきたいと思っています。

Kenn Ejima - Quora

そのなかには、今年こそは本庶先生がノーベル賞をとるのではないかと予測をした投稿もあります。

今年2018年のノーベル賞の日本人受賞者候補は誰だと思いますか?に対するKenn Ejimaさんの回答 - Quora

この闘病ブログを書き始めて3年たった今でもまだ2015年8月23日までの分しか完了させることができていません。残りあと2週間分なのですが、だんだん妻の死の日が近づくにつれ、日記を読み返すのがつらくなり、書くペースが落ちてきています。

しかし、この闘病ブログは私にとっての鎮魂歌であり、ライフワークのようなものなので、妻の家族・友人のためにも、今がんで闘病中の方々のためにも、そして何よりも自分自身のためにも、いつかは必ず完成させるつもりです。

ではまた、願わくば近いうちに。