ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

手術当日

朝、5amぐらいに目が覚める。妻の様子を見に行くと、なんとか眠れている様子。背中に貼った二枚のパッチが効いたか?

いつものように無意識に布団をはいでいたので、かけなおしてソファの寝袋に戻る。しかし、なんとなく目が冴えて眠れない。外はまだ暗い。

しばらくすると母が起きてきて、窓から外の景色をみているのがわかる。高層階なので、180度地平線を見渡す景色のなかにラスベガス・ストリップの巨大な建造物がならんでいる。暗闇の中でお互いの存在に気がつく。後で話をきくと、2am過ぎに目がさめてしまったようだ。

6:30amになったので、母と一緒に一階へコーヒーをとりにいく。

このコンドミニアムでは、毎朝いれたてのスターバックスのコーヒーが4種類、無料で提供される。とはいっても、管理費に含まれているわけだけれど。週末にはパンやフルーツや卵料理などもフリーで提供される。週末には、いつも妻と二人でこの朝食をとりにいくのがお決まりだった。

帰り道、メールボックスの場所なども一応説明する。

部屋に戻ってきてみると、妻も起きていた。

妻は絶飲食を続けているので、母親と二人でジュースを作って飲む。人参とリンゴとオレンジとレモン。

妻がキッチンの使い方を教えつつ、全粒粉パンにワカモーレとスモークサーモン、ゆで卵で朝食を作ってくれる。

洗濯機を回したり、犬のトイレの始末をしたり、ゴミを捨てに行ったり、ひととおり母親に予行演習してもらう。とくに玄関はオートロックだから気をつけて、と念をおす。

しかし8amぐらいになるとやることがなくなってきて、なんとなく3人で記念撮影してみたり。

病院の予約時間まで時間があるのに、薬があまり効かなくて苦しそう。それなのに、母が咳をしたら私に「青汁を作って飲ませてあげて」と気遣いをみせる。

痛みが強くなってくると、床に寝転がって体を丸める。この姿勢が楽らしい。顔色がよくないし、やはり痛いというので、やむを得ずホッカイロを背中に貼ることにする。温めるとFentanylが効きすぎるかもしれないので、一応シャツ二枚越し。

いよいよ予定の時間が近づいてきたので、病院へ。なるべく体にひびかないよう、気をつけて車を運転する。

しかし、手続きを済ませてみると、通されたのは普通の待合室で、ここで名前が呼ばれるまで待つのだという。

痛みと昨日からの絶食で妻の苦痛は限界に近づいている。ここでいつまで待たされるのか。受付に何度確認しても、どうしようもない、といった顔をされる。

他にイライラをぶつける先もなく、何度も母にメッセージを送る。

私「やっぱり待たされる。。」

母「どれくらい?」

私「手術は3pmから、準備に2時間みてるらしいけど。ドクターは3pmギリギリまでこないって。」

母「部屋のベッドで待機してるの?」

私「待合室の椅子」

母「そんな〜」

母「せめてベッドで寝かせてもらえるよう頼んでみたら?Iちゃんは我慢強すぎて、苦しそうに見えないから軽くあつかわれてるのかもしれないよ。ま、言っても無駄なことは重々承知で言ってるんだけどね。」

私「無理っていわれた」

母「やっぱり」

結局、3pmまでこの状態で2時間待つことになった。やっと名前が呼ばれると、フラフラの状態なのですぐに車椅子を出してもらい、乗せられてブリーフィングルームに入っていきながら「妻はいま低血糖で危険な状態だからすぐに点滴してほしい」とナースに要求を伝える。

応対してくれたナースは皆いい人で、すぐにドクターにかけあって点滴を準備してくれた。

そして、サブのドクターFがあらわれて初対面、手術の内容について確認される。キャリア40年以上のベテランとは聞いていたが、70近い高齢にもかかわらず背筋はすっと伸びていて、長身で筋肉隆々。低い迫力のある声の持ち主だった。その後、メインの女医ドクターCも登場。事前にいろいろと打ち合わせ済みなのかと思えば、合ったのは久々らしく、今回の手術の内容についてその場でドクターFに説明をはじめる。

その後、アジア系の麻酔科医が登場。指示を守ってきちんと絶飲食してきたか?と確認され、さきほど待たされている間にあまりに調子が悪くなったので水をほんの一口だけ飲んだと答えると、表情が凍りつき、「今日はもう手術できない」と言い出した。

口の乾燥がひどかったので、本当に10ccとか口を濡らす程度だと言っても、「ひと口だろうがボトル一本がぶ飲みだろうが関係ない。ちょっとでも何か口にいれると、胃腸が動いて、麻酔をすると吐き気が出てくる。吐いたものが喉に詰まると大変なことになる」とすごい剣幕でかえしてくる。ドクターCも説得にあたってくれたが、「麻酔の結果について責任をとるのは私だ。私が判断する」と言ってきかない。

そうはいっても、ドクターCは今日このためだけにこの病院にきてるし、ドクターFの時間もおさえている。結局、皆の説得で、あと30分だけ待って手術を開始することになった。

今日これだけいろいろと我慢したのに手術できなくなったら大変なことになるぞと冷や汗をかいたけど、なんとか進められることになった。

いよいよ、予定の時間がきて、手術室へ向かう。妻を送り出すとき、手を握って「しっかりね」と声をかける。

その後、手術が終わるまでは待合室で待機だ。

掲示板には、名前ではなく番号でステータスが表示されている。

番号9406のステータスが3:21pmからIn Operating Roomに変わる。いよいよ手術開始だ。

この待っている時間も不安で、母とメッセージをやりとりする。

母「K(犬の名前)がなんか感じてるのかもしれないけど、突然動き回り始めた」

私「Kは音に敏感やから、ガンガンiPhoneの通知音が鳴ってるからかもな」

母「そうかもしれんね。もう私にべったりですわ。」

私「そっちは何か困ったことない?昨日のカレーたべた?」

母「カレー食べたで。快適に過ごしてるよ。昼寝もしたし。」

私「それならよかった。Kのトイレときどき見てあげてな。」

母「おしっこしたからごほうびあげたよ。それ以来ずっと膝の上。w」

私「そっかw」

母「一緒にテレビ鑑賞してる。Kは目が見えないのに、ずっと画面に向かってる。」

こうした何気ないやりとりで気を紛らわせる。

ほぼ予定どおり2時間きっかりの5:30pm頃、ドクターCが出てきて、「手術は終わったけど、ちょっと説明したいことがあるから」来てくれと言われる。

ドクターについていくと、待合室からオペ室につづく廊下で振り返り、切り出した。

「予定通り、右卵巣・卵管と子宮、それからリンパ節と大網も少しとりました。それから、盲腸も。どれも、異常はありませんでした。けれど、左側のリンパ節が数えきれないぐらいたくさん腫れていたので、切除しながらどんどん上にたどっていくと、大動脈に巻き付いているところに大きな腫瘍があって、そこから先は取りきれなかったので手術を諦めて閉じました。ここから先は化学療法になります。」

と衝撃的なことを言われる。

突っ込みどころが多すぎて、頭が追いつかない。結局、再発をうたがった右卵巣や子宮などには異常はみつからなかった?でも、事前に同意した記憶のない盲腸までとった?しかも、一番肝心の腫瘍はとりきれずに諦めた?

瞬時、頭が真っ白になりかけたが、続けて出てきた言葉がさらに追い打ちをかける。

「これは、卵巣がんではないと思う。前回のときも説明したと思うけど、ブヨブヨしていて、柔らかい。これは、おそらくLymphoma(悪性リンパ腫)だと思う。腺癌と奇形腫の併発だけでもめずらしいのに、3つめの腫瘍がでてくるなんてレア中のレアだけど、幸いLymphomaなら化学療法がよく効くから、気を落とさないで」

えっ?Lymphoma?

あまりに予想外の病名に戸惑う。

そもそも、がんという病気は病理診断による情報量が圧倒的で、見た目でそれが何であるのかは簡単には判別できないということを前回の治療で学んだ。

それなのに、今このドクターは、これは卵巣がんではないといい、しかも悪性リンパ腫という、まったく別の腫瘍であると言っている。しかし、それがほんとうに悪性リンパ腫なのかどうかはともかく、「卵巣がんではない」と言い切るためには、一般的な卵巣がんとはどういうものであるかという経験の蓄積と、それに照らして違うといえるだけの強い根拠がなければ出てくる言葉ではないはずだ。だから、少なくとも「普通の」卵巣がんではないのだろう、ということは信じることができた。

しかし、意外なほど冷静に頭は回転し、今しか聞けない、今きくべきことを考えて質問した。本当にLymphomaかどうかは最終的な病理診断の結果を待たねばならないのではないか?化学療法は日本で受けたいのだが可能か?などと今後のプロセスについて確認していく。

優秀なアメリカ人は、なんでもパッパッと手早く効率よく仕事をすすめていくが、効率を落とすタスクが混ざってきたときの諦めも早い傾向があるような気がしている。今回のように想定外の難しい局面に出くわしたとき、これがもし日本人医師であったならば粘り強く手術を続けたのではないか、いや病院のシステムをみてると手術室を使える時間は細かく割り振られているようだから、やはり2時間の予定が4時間になるような手術はできなかっただろう、などと詮ない想像をしてしまう。

どう受け止めればいいのかわからないけど、もう手術は終わってしまった。これからもう一回、とはいかない。いまさら、何を言ってもしかたがないことだ。

時間とともに、先ほど言われたことの重みがズーンとのしかかってくる。いろいろと複雑な状況ではあるが、とにかく結論としては「手術は成功ではなかった」のだ。いま、妻は回復室で麻酔から目が覚めるのを待っている。このあと病室に戻った時、なんといって伝えればよいのか。

そうこうしているうちに、6:30pm頃にあとから出てきたドクターFから挨拶を受ける。手術は無事終わったから。。。などと言われた気がするが、もう上の空だったので何も覚えていない。結局、手術は成功しなかったのだから。

7:10pm、まだディスプレイの表示はIn Operating Roomのままだけど、そろそろ回復室から戻ってくる頃だ。

7:30pm過ぎ、とうとう連絡があり、病室番号を告げられる。ダッシュで病室へ向かう。

病室に着いてみると、まだ妻の姿はない。思ったよりかなり広い空間だ。

付き添い用の椅子は、背もたれを倒すと足のところも持ち上がって、フルフラットになる。キャスターもロックできるので、寝る場所と向きを決めて固定すれば、この上に寝袋を敷いて寝ることができそうだ。

ノートパソコンを置ける台と、電源もある。ゲスト用の無料Wifiまで用意されているので、ここで一日過ごすことは特に問題なさそうだ。

今のうちに晩飯を食べておこうと、一階のカフェテリアへ行ってサンドイッチを買ってくる。これから入院生活が長くなる可能性を考えて、ざっと見ていくが、良心的な価格設定だと感じる。

戻ってくると、ちょうど妻が病室に運び込まれるところだった。意識はもう戻っている。

前回の日本での手術のときには、手術直後といえば意識ももうろうとしていて、呼吸も苦しそうにしていて声もほとんど出なかったのだが、今回は割と意識もはっきりしていて、声を出して話すこともできる。アメリカの治療が違うのか、それとも二度目の手術なので慣れもあるのか。

妻は、自分でもそれなりに術後の状態がマシであることがわかったのか、実家の義母に電話して手術終わったよと伝えたい、という。

今日、4月17日は、義母の誕生日だ。

いつも妻は、自分の両親の誕生日、私の両親の誕生日、母の日や父の日には、自分でセレクトしたアメリカならではのアイテムを箱いっぱいに詰め込んだプレゼントを贈っていた。今回は、誕生日プレゼントを贈れないだけでなく、自分のことで心配をかけることになってしまって残念、という気持ちが強いようだった。

むろん、そんなことを親が気にするはずもなく、ただ娘の無事を祈っているだけなのは当然のことで、「お義母さんはわかってくれるよ」というような言葉を口に出すことさえ陳腐に思えて、そういうときには無言で手を握った。

義母に電話がつながって、妻の耳元へもっていってあげると、自分の口から手術が無事に終わったことを伝えることができて、満足そうな表情をした。

2年半前に父親をなくした妻は、いつも母親を安心させることに腐心し、自分の調子が悪い時には話をしたがらなかった。これはこのあともずっと続く姿勢だった。

その後も、妻のリクエストで、心配してくれている地元の幼なじみの友人たちに手術が無事おわったことを伝えるメールを代筆した。