ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

余命宣告と帰国の決意

0amに鎮痛注射。

2:30amに鎮痛錠剤。

2:50amに鎮痛注射。

4:30amにトイレ。

5:00am、採血。

6:00am、鎮痛注射(したらしい)。

7:30am、ナースのシフトチェンジと同時に鎮痛錠剤、背中のパッチ貼り替え。

8:30amに下のカフェテリアへ買い出しへ。紅茶とカンタロープ(メロン)。食べたのはスイカ1切れ、パイナップル2切れ、カンタロープ1切れ、そしてプロテインシェイクのAbbott Ensureを半分と紅茶。プロテインシェイクはこういうの。

なかなか痛みがコントロールできないので、引き続き色々調べた結果、副作用の強い鎮痛剤よりも局所療法、なかでもブロック注射がいいのではないかと考えるようになる。結局、痛みがある場所は一箇所なのだから、水際でブロックできるに越したことはないはず。硬膜外麻酔なら初回手術のときにやったことがあるし、効果は証明済みだ。

というわけで、ナースMelissaに麻酔科医と話し合いたいと相談。

トイレに長く入ってトライするが、やはり排便はなし。

腰の周囲に大量の汗をかいている。こんなところに局所的な発熱・発汗というのがあるのだろうか?

健康なときなら、ちょっとした体調の変化も気になって、こういうことも調べていくのだが、大きな病気をすると色々なことが起こりすぎて、いちいち調べきれなくなる。ただこうして黙々と日記にメモだけ残して、いざ必要となったときに後から振り返れるようにしておく。

ビデオチャットで常時接続している母が、私たちの様子を動画に撮っていた。10am頃の様子だ。

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11:30am、鎮痛注射。Dulcolax 2錠とColace 1錠も。

12:40pm、鎮痛錠剤。

痛みの場所が背腰部から両脇下腹部へと移動してきたらしい。トイレに長時間座っていたので筋肉痛かも?体表面のほうが痛いらしい。

病院近くのWhole Foodsへランチを買いに出かける。

孤独感を感じてほしくないので、病室を離れるときにはiPhoneFaceTimeビデオチャットで移動中の景色をライブ中継する。

外出中、ビデオチャット越しにスープの種類をどれにするか妻に選んでもらっている最中に内科医がやってきたので、その場で脇腹の痛みについて説明し、ブロック注射を検討してほしいと伝える。

このときの様子を、たまたま母が撮影していた。

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内科医は、痛み緩和のために筋弛緩剤を試してみよう、経口薬の効きが悪いので便秘解消のために浣腸をしよう、病理検査の結果はまだ出ていない、ブロック注射はこの病院ではできないだろう、などと応えている。

買い物を済ませて1:40pmに戻ってくるが、ずっと痛みでうめいている。1:55pm頃に落ち着く。

買ってきたのは人参、リンゴ、レモンのジュース(スロージューサーではなく高速遠心分離)とオーガニックのスイカ、チキンヌードルスープ。自分用にはローストビーフ&アルグラのサンドイッチ。

2:20pmにトイレのあとまた腰が痛くなってきたという。

2:30pm、鎮痛注射。

3:40pm、排便のための座薬を入れる。10分ぐらいですぐ便意をもよおすが、30分ぐらい我慢しろと言われる。

4:10pmに行くが、不発。

4:45pm頃に再挑戦、ようやく排便!

5:30pmぐらい?に鎮痛錠剤。

トイレに行ってからまた調子が悪くなり、痛みを訴えるが、7pm頃はシフト交代でなかなかナースがこない。

7:25pm、ようやく鎮痛注射。

9pm、ドクターWがナースセンターにいるのを見つけ、話をする。

なかなか病理検査の結果が出ないがどうなっているのか?と訊ねてみると、病理のサンプルが州外の専門機関へ搬送されたという。えっ?と一瞬固まると、ドクターは真剣な顔になり、コンピュータの画面から目を離してこちらに向き直った。

「日本から送ってきた病理スライドから、奇形腫に埋もれたhigh-grade sarcoma(高悪性度の肉腫)が見つかったので、専門的な検査が必要だと判断したのよ。」

サルコーマ?そんな。。。肉腫の疑いがあったから、それを見落とさないために、すごく時間をかけて病理検査したのに。。。」

「日本の病理医は、サルコーマの存在に気づいてた。それは明らかよ。あなた、手術後の治療について、引き止められなかった?」

「最終診断はグレードの低い未熟奇形腫と類内膜腺癌の併発だったから、抗がん剤の効果も低いし、それならば経過観察でお願いしますと。。。」

「ほんとに、治療を継続すべきって強く言われなかった?(Didn't they insist?)」

しばらく沈黙が続いた。

不意にサルコーマ、しかもハイグレードという言葉が出てきたことに激しく動揺し、体がガクガク震え始めた。アメリカではエアコンの効きがきつくて寒いが、このときの震えは寒さだけではなかった。

たしかに、2月の日本での病理診断の結果には、色々と所見を書いてある中に埋もれて

(前略)大きな隆起性病変は、異型性の目立たないやや未熟な脂肪組織や、紡錘形細胞が錯綜増生する肉腫様領域が主体で、(中略)一部で脂肪組織と癌腺管が混在しており、癌肉腫も鑑別に挙がりますが、全体として内膜症由来類内膜腺癌と未熟奇形腫の合併が考えられます。(後略)

というような記述があった。けれども、これだけのことを言及したうえで全体としては肉腫ではないとの結論を出しているのだから、見落としというわけではなく判断の問題である。素人にはこれを信じるほかない。

ところが今ドクターWは、このなかには高悪性度の肉腫が混ざっており、そのことに病理医は気がついていたのだから、何よりもまずこれが転移してくる可能性を考えて治療を継続すべきだったのだ、と言いたげだ。その言わんとするところは今なら理解できるが、病理医の仕事が専門的すぎて主治医さえもその指針を信じてやっていくしかなく、ましてや患者と病理医は直接対話する機会すら与えられないということまで考えると、今また最初からやりなおすことができたとしても状況を変えられなかっただろう。

つまり、今と同等の知識水準があったとして、この病理レポートを読んで「様々な可能性が考えられるなかで、肉腫が転移してくるのが一番怖いから、肉腫をターゲットとした治療を継続したほうがよいのではないでしょうか?」と主張できる気がしないのだ(そもそも肉腫「様」領域としか書かれていない)。いったんは手術に成功したわけで、いろんな組織型が見つかったからといって、実際に転移してるかどうかわからないものをエイヤで選んであてずっぽうで抗がん剤をやるなど、ありえない。この組織型にはこの抗がん剤という感じで使う薬が決まっているのだから、もし肉腫以外の細胞が転移していたら目も当てられない。そうすると結局、転移が発覚するまで待って、外科的に病巣部をとりだして、どの組織型が転移してきたのか病理検査にかけて調べるしかない。つまり、まさに今たどっている経過と同じだ。

ひとついえることがあるとすれば、あのときリンパ節郭清を実行していれば、早期に転移が見つかったかもしれない、とは思う。しかし、5mmの病巣部でも見つかるPET-CTで映らなかったのだ。リンパ節郭清を実行したとしても、まだその時点では目視できず、病理切片の間に埋もれるサイズであった可能性も高いだろう。いずれにせよ、エビデンス的にリンパ節郭清は「診断的意義はあるが、治療的意義はない(=予後の改善はない)」のだ。

結局、あのときこうしておけばよかった、と思うような「運命の別れ道」は存在しなかった。

いずれにせよ、過ぎた事をあれこれ言っても仕方がない。大事なのはこれからどうするかだ。

「もしサルコーマだったとしたら、予後はどうですか?」

この問いに、ドクターWの顔が曇った。

「もし本当にサルコーマなら、あと1年もたないでしょう。I'm so sorry...」

このとき、危機的な状況に遭遇したときの本能のようなものか、瞬時に色々な考えや感情がごちゃまぜになって頭のなかに浮かぶが、平常時の何倍もの速度で思考をめぐらせて処理していく。今、ドクターに伝えるべき一番大切なことは何か、結論はすぐに出た。

「やっぱり、妻は絶対に日本へ連れて帰ります。」

恐怖と不安とが入り混じった震える声で、しかしきっぱりと伝える。

これまでは、日本で治療を継続するか、それともアメリカで抗がん剤の投与を始めるか、まだ迷いがあった。日本に帰るのはドアツードアで20時間以上の移動となり、激しい痛みと副作用で一日中苦しんでいる現状ではとても不可能に思えて、アメリカで抗がん剤をやって少しでも病状を落ち着かせてからのほうが良いのではないかと考えたりもしたが、ドクターの話をきいて直感的に、これは何が何でも今すぐ日本へ連れて帰ることに全力で取り組むべきだ、との強い確信を得た。

頭のなかでは、もちろん最悪のケースもシミュレーションした。抗がん剤をやっても効果がなく、病状の進行プラス抗がん剤の副作用でますます帰国が困難になり、遠く離れた異国の地で孤独に命を落とす妻。そんな状況は想像するだけでも恐ろしく、絶対にそんな思いはさせない、と心に誓う。

病理検査の結果が出るまで、あと一週間ぐらいかかるそうだ。その間に帰国の準備を着々と進めていかなければいけない。

ドクターとの話が終わったあと、どんな顔をして病室に戻ればいいのか困った。妻は、私の表情を敏感に見抜く。なんといっても20年以上の付き合いだ。私が不安そうな顔をしていたら現実以上に悪い可能性を考えてしまうことだってあるだろう。かといってわざとらしく自信たっぷりの言動も見透かされてしまう。あくまで自然に、いつもどおりに振る舞わねばならない。

今回、確定診断がつけばという条件付きではあるが、はじめて余命1年以内という宣告を受けた。しかし、少なくとも今はそのことを妻に伝えるべきではない。これまでも二転三転したように、また予想外の診断がつくという可能性もないわけではないし、暫定の悪いニュースを伝えることによって失うものはあっても得るものはない。

だから、このことは自分の胸にしまっておきつつ、「絶対に日本へ帰るぞ!」という強い決意を何度も心のなかで唱えることで、平常心を取り戻すことができた。どんな内容であれ、目標を定めることで人間は強くなれる。

病室に戻ってから、いつもどおりのトーンで妻に話す。

「今、ドクターWがナースセンターにいたから病理検査の件について聞いてきたよ。アメリカの医者も遅くまで働いてるんだねぇ。なんか、判断の難しい組織型だから州外の専門機関へ病理のセカンドオピニオンを出したって。結果がでるのにもう一週間ぐらいかかるみたい。」

妻は表情には出さないが、専門機関に送られたという事実をきいて自分の病気は思ったより悪いのではないかと勘ぐってしまう可能性を考えて、続ける。

「これまでも卵巣がんと言われたり奇形腫といわれたり、また悪性リンパ腫といわれたり、二転三転してたからね。いずれにしても、抗がん剤をやれば治療できるけど、どの薬を使うかを決めるにはしっかり診断をつけることが大事だから、専門機関で確実に診断をつけてもらえるのはありがたいことだよ。」

と、さりげなく「どのケースでも治療可能」というニュアンスをおりまぜて説明する。妻には、「だから心配しないで」のような根拠のない安心感を押し付けるような表現は決して使わない。こういう言葉は、どうしたって不安がゼロになるはずもない本人との間に壁を作ってしまうだけだ。大きすぎる不安の渦中でひとときの安らぎを得られるかどうかは、寄り添う人間のさりげない言動にかかっていると、私は思う。

妻は、さらに一週間も待たされるのはしんどいなぁ、と言った。私は、それも待たずに帰国準備を進めようね、と応えた。病理の結果を受け取るだけなら日本に帰ってからでも方法はあるはずだ。

その後も痛みで苦しむがなかなか夜勤ナースBobbieがこない。とうとうドクターWを呼んで診てもらう。

9:40pm、ようやく来て鎮痛錠剤、筋肉弛緩鎮痛剤。

10pm、ようやく落ち着く。

10:30pm過ぎ、いきなり技師がX-Rayの機材をもってあらわれる。腹部レントゲンを撮って、腸閉塞を調べるのだという。結果は、「フリーエアも閉塞もなし。大腸に溜まった便量は増加。下腹部に手術時のステープルがみられる。全体として異常所見なし」であった。

11:00pm、鎮痛注射。

11:20pm、妻が注射で眠っているうちに採血。背中のパッチをはがすのとエネマ(浣腸)をやらなければと言われたが、まださっき注射したばかりだから、もう少し眠らせてあげたいと伝えた。

0:30am、ようやく待望のPCAポンプを導入。これで痛みが出たときにいちいちナースを呼ぶ必要がなく、自分でボタンを押すだけになった。同時に呼吸抑制のリスクがあるので点滴、人工呼吸開始。背中のパッチも外す。