ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

妻の前で泣き崩れる、GD療法からVAC療法へレジメン変更

昨夜は寝るのが遅かったが、5am頃に目が覚める。

6am頃、スイカを食べる。しっかり食べる。

そして、おもむろに口を開いた。

「今日ぜんぜん寝れへんかってん」

「昨日からずっと考えとってんけどな、KちゃんのリサーチではGD療法ってどれぐらい効くん、延命にしかならへんの?」

「今まで完治が望めると思ってたから頑張ってたけど、胚細胞腫瘍じゃなかったってことやんな」

「延命してこんなしんどい思いをずっと続けたくない。そんなんやったら、家に帰りたいわ。帰って緩和治療受けたい」

「先生にこの抗がん剤治療はどのぐらい効くんか聞いてもいい?」

「Kちゃん、泣かんとって」

妻の前でどうしようもなく泣き崩れたのは、これが初めてだ。

迷子になりそうな妻の心を導くため、頼れる存在でありたかった。どんな状況になっても、常に進むべき方向を指し示し、こっちだ!一緒に行こう!と言える存在であり続けたかった。

しかし、いま手元にあるシグナルのいずれもが、この先は行き止まりであることを示していた。新しく出てくる情報のことごとくが、全力をふりしぼった勇気をあっさりとなぎ払う、絶対的で無慈悲なものだった。

延命したくない、という言葉が妻の口から出た途端、とうとう今までこらえてきたものが決壊してしまった。呼吸が苦しくなるほど泣いた。

妻はそんな私を置いたまま、何かを決心したように続ける。

「私な、もう助からんのやったら用意しとったものがあんねん。今までいっぱい治療費かかったしな、お母さんに持ってきてもらうわ。」

と、母に電話をかける。しっかりしたハリのある声だ。

妻は、いつもそうだ。自分のことよりも、周りの人間、とくに家族や友人のことを優先する。何を持ってきてもらうのかわからないが、お金のことで妻に負い目を感じさせることだけは絶対にしたくない。でも、一度言い出したら聞かないのもまた妻の性格だ。

カレンダーからの通知で、今日は学生時代の友人だった長瀬弘樹の誕生日だと知る。その通知からしばらく目が離せない。京都で妻と付き合い始めた学生時代から、泊まりがけで遊びに行ったり来たり、就職で東京に出てからもバンド仲間のつながりでよく集まって飲んだりしていた。その後、私たちはアメリカに渡り、彼は作曲家として成功したのだが、3年前に自殺してしまった。彼の死は、いまも心の奥深くに澱のように溜まっている。

「死」という概念が頭のなかで暴れまわる。

死という絶対的なものにある種のロマンティシズムを感じる時期が、10代の頃にあったことを覚えている。それは学生時代によくある通過儀礼のようなものかもしれないが、そういう感覚をおぼえた経験があるからには、自死に対して倫理的な価値観を押し付けることはしたくない。しかし、今はどうだろう。望んだ死と、望まざる死。それは公平なものだろうか。

自死に向かうとき、彼は私たちと同じような死への恐怖を感じただろうか。それとも、絶望からの安楽と開放を求めたのだろうか。希望を捨てていないからこそ恐怖がやってくるのであって、絶望と恐怖はトレードオフの関係なのだろうか。

答えは出ない。

7am、15分おきのたてつづけのオキファストの2.0mLブーストをし、背中のパッチの貼り替え。

下のカフェテリアにサンドイッチとコーヒーを買いに行く。妻が、バナナとパイナップルはもういらないから食べてというので、食べる。

7:45am、ナースOさんが持ってきてくれた清祓用タオルで、ベッドで横になったままの妻の顔を拭く。こうした何気ない時間の、なんと愛おしいことか。

8am、朝食がくるが、起き上がらない。ノバミンとマグミットも飲めず、そのまま置いていってもらう。

しかし、9am頃になると、またスイカを食べる。

この頃には、部屋のトイレで用を足してる間、外に立って誰かが入ってこないよう見張る役割をするようになる。終わったら携帯を鳴らしてもらう。

久々に小さな固形のうんちが出たらしい。

ゴミ掃除の人にも入室を控えてもらう。

9:30am頃、H先生が登場し、抗がん剤のレジメンを違うものに変更しようと思う、それから放射線も検討する、との話が出てくる。そして、ご主人話しましょうということで、一緒に面談室へ。

先生は、昨日の話をしたあとで胎児性横紋筋肉腫について調べたところ、やはりVAC療法がいいのではないかとの結論に達したようだ。婦人科領域で実績のあるGD療法というのは子宮の平滑筋の肉腫が対象で、奏効率も30%程度と満足のいくものではないこと。それに比べ、小児科の横紋筋肉腫では70%の奏効率にくわえて、Complete Responseの症例まである。こちらに賭けてみたほうが良いのではないか、という話だ。先生の岡山大学の同期で整形外科の腫瘍専門医がいるとのことで、彼とも相談しつつ、院内の腫瘍内科などとも連携して、集学的治療を行っていこうと。

ただし、VACの毒性はGDよりも強く、また治療期間も10-20クールで1年以上にわたることになる可能性がある。また、分子標的薬のパゾパニブもおそらく適応ではないが、念のためメーカーに問い合わせてみていただけるという。ただし、これは標準的な治療をひと通り終えた後になるとのこと。

10:30am過ぎ、妻の幼なじみの友人たちとの約束で、iPhoneFaceTime越しにビデオチャットで面会することになっていて、こちら側ではiPadを私が手で持って妻が話せるようにしていたが、体調がすぐれずほとんど話ができない。大阪の地元の中学校の景色をバックに、昔話をしながらみんなで応援したいという趣向であったのだが、体調のよくない妻はそういう姿で友人と会いたがらず、もう切って、と、あまり後味のよくないまま終了。

妻にとって一番付き合いが長く気の置けない友人たちなのだが、彼女たちでさえ妻の落ち込んだ気持ちをすくい上げることができなかった。こういうときにかけられる言葉で、ほんの一瞬でも魔法のように気持ちが晴れるような言葉はあるだろうか。毎日そのことばかりずっと考えているのに、見つからない。健康で元気な人間と、絶望的な病気で苦しんでいる人間との間を埋めるような言葉が、健康な側の人間から出てくることはない。むしろ、言葉の選び方ひとつで傷つけてしまうことのほうが多いのだ。これは言語では越えることはできない壁なのかもしれない。そしてそのことが直感的にわかっているからこそ、妻は誰にも会いたがらないのだろう。

12pm前、両親がきてくれる。弁当、ジュース、フルーツに加えて、アメリカの親友からの見舞いのお花、私の従兄弟やその子どもたちがメッセージを込めた色紙をもってきてくれた。妻と世代が同じ女の従兄弟たちとは仲がよく、いつも正月などに帰省したときには楽しくすごしていた。いろいろな人の好意に支えてもらっている。

1pm、談話室で両親と話す。

朝に妻が話したこと、治療方針が変わったこと、など。それから、母がこの近くにあるH病院の緩和病棟について持ち出す。このH病院は母自身が入院したことのあるところで、印象がよかったらしく、緩和病棟の病床も限られているから、まだ先のことかもしれないけど見学と相談だけでもしておいてはどうか、とのことだった。私としては、これから治療に向かうので緩和病棟への転院について考えることは気が進まないが、あらゆる可能性を排除せず準備をしておくことの大切さは理解できるので、まずは妻に知らせず下調べだけはしておこう、ということになった。また、妻が治療費のことを気にして、アメリカから帰国してくる時点できっちり準備していたことを知り、父が涙する。

少し昼寝して3pm頃、隣の個室の515号室があいたので、引っ越し。1月に入院したときは514号室だったので、その隣の部屋だ。ようやくトイレの付きの個室になり、本日から差額ベッド代を払うことに。逆にいうと、これまでの重症患者用の部屋は個室ではあったけれども差額ベッド代を払わなくてよかったということらしい。

これで、ポータブルトイレで用を足す必要がなくなり、毎回終わったあとナースコールを呼ぶ必要もなく、自尊心が傷つくこともなく、私が外に出て誰かが入ってこないよう見張っておく必要もなくなる。

夕食は、妻が食べられないという病院食を自分が食べ、妻自身はスイカとゼリー。

10:30pm就寝。