ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

手術当日

手術当日の朝になると、病院に向かうよりも先に妻から電話がかかってきた。

「近くのホテルとってくれる?お母さんにはそっちに泊まってもらうわ。Kちゃん交代して!」

なにかとおもえば、義母は寝心地がわるくて外の冷気がカーテンごしにはいってくる病院のソファベッドでよく眠れなかったようで、持病のリウマチもあって寒い、痛い、と夜通しゴソゴソと動いていたらしく、妻本人はそれが気になって、手術当日だというのに、これまで以上に寝不足になってしまったとのこと。

それをきいて、手術を翌日に控えた病人が見舞い人の心配をするという構図に、みな思わず吹き出した。

このときに限らないが、どんなに深刻な話をしてるときでも、決して暗い雰囲気になりすぎることはなく、常に笑いが絶えることはなかった。

そして、浣腸をなんとしても避けたい妻は、下剤を飲んだ前夜から、祈るような思いで排便を待っていた。そして明け方。

「Iさーん、あれから排便はありましたかー?」

「ありましたー!もうからっぽです」

「どんな便でしたか?」

「何度も行ったので、最後のほうはゆるい便でした」

「そうですかぁ。それじゃだめなんですよねぇ、さいごは水便になってないと。。。浣腸ですね」

「Σ(;゜д゜)」

「ご心配なく、ほとんどの人は浣腸になるんですよ」

それを先にいわんかい!と心でつっこんでいたそうで。。。

ともあれ。午後からの手術に向けた準備は万端。

点滴のラインをとってから、血栓予防のための弾性ストッキングを履いて、自分の足で手術室まで歩いて行った。

予定されている手術時間は4時間。病棟の立ち入り区画のところまで見送ったあとは、手術中に何かあれば呼び出しがかかることになっている。

基本的に、卵巣腫瘍の手術の場合には、手術中に行う迅速病理の結果にもとづいて意思決定を行う必要があるので、呼び出されることはほぼ確実。

そして手術室に消えてから約2時間後、看護師が病室まで呼び出しにきた。

覚悟を決めて深呼吸してから手術室まで歩いて行くと、そこで通されたのは、手術室の隣にあるブリーフィングルームのようなところで、病院のシステムに接続された端末が置いてあった。「病床利用率95%」のような院内職員向けのニュースが表示されていた。公立病院の経営がどのようにして行われているのか、ふと興味が湧いてきた。

そんなふうに思考を漂わせていると、しばらくして手術衣からマスクや帽子をとりながらH医師が現れた。いつものおだやかな印象と違って緊迫感をただよわせ、まるで戦場から補給のためもどってきた兵士のように見えた。一気に緊張感が高まる。。。

「いま手術中ですので手短にお話します。まず、患側の卵巣はきれいにとりました。この際、子宮との癒着があったので、これをまず切断・焼灼しました。それから、S状結腸のほうとも癒着があったので、こちらは子宮内膜症の血液によるものだと思いますが、これを丁寧にはがしていきました。リンパや健側卵巣は触診した限りではとくに問題なさそうでした」

「はい」

「それで、腫瘍ですが、迅速病理の結果、やはり卵巣ガンでした」

「そうですか。。。」

「こうなると、標準術式としては、両側卵巣と子宮を全部きれいにとる、ということになるのですが。。。」

これを聞いて、正直ぐらっときた。

手術というのは、準備から回復まで、心身ともにものすごく負担がある。術後いかに大変かは、卵巣ガン患者の闘病ブログなどを大量に読んで知っていたので、なおさらだ。もし、いずれにせよ取ってしまわないといけないのならば、この一度の手術でとりきってしまうほうがいいかもしれない。

しかし、H医師の説明からは、最初期の1a期である可能性はまだ消えてない、と感じた。子宮ももう一方の卵巣もきれい、リンパにも肉眼的にわかる腫瘍はない。もし1a期で低悪性度という幸運があれば、妊孕性温存術式の適用になる。

答えに迷っていると、H医師のほうから切り出してくれた。

「奥さんは心の準備がないかもしれませんから、まず患側卵巣のみをとって、じっくり病理検査をやってから、改めて再手術というのがいいかもしれませんね」

「はい、ぜひその方向でお願いします」

かろうじてそう回答したが、正直いって、今まさに大変な手術をしている最中に再手術の話をされて気が遠くなりかけた。

今こうしている間にも、妻は開腹されたまま、麻酔で眠っているのだ。

しかし、一度切った臓器は二度と戻ってこない。だから、本当に絶対に必要だと納得できるまでは切りたくない、と話し合ったことをなんとか思い出したのだった。どんなときでも、未来というのは不確実だ。いま目の前にある選択肢のなかで、もっとも未来の選択肢をせばめないものは何か。それは、たとえ再手術になるとしても、今は手術の領域を最小限にとどめる、という選択なのだ。

今でも思うのだが、こういう場合にどうするかという意思決定は、とっさの判断で正しい選択をすることは非常にむずかしいので、事前に徹底的に場合分けをしてシミュレーションし、回答を決めておくのが望ましい。そうでないと、あたらしい情報が出てきたときにとっさの判断ができず、右往左往してしまう。とくに、すぐに判断をしなければいけない今回のような場面ではなおさら。

このとき、わたしが「一度の手術で終わらせてあげたいので、もう両側卵巣と子宮までとってしまってください」と答えていたら、その後の妻の運命は大きく変わっていただろう。

どのような新しい情報がでてきても、最小限の手術で済ませたいという原理原則のような部分を何度もしっかり話し合って決めていたからこそ、ほとんど迷わずにその選択をすることができたのだ。

「わかりました。ではこれから閉腹していきますね」

H医師はそう答えて、手術室に消えていった。

個室に戻ったあと、次に呼び出されたのは手術が終わった後だった。手術開始から3時間ほど経っていた。

ふたたび手術室に向かうと、今度は準備室のようなところに連れて行かれ、実際に取り出した卵巣を目にすることになった。

かつて妻の一部だったそれは、異様に大きく膨らんで、まるで胎児の頭ぐらいのサイズになっていた。中にあった液体が出たあとも、外皮は縮むことなく伸びきっていた。

そして、切開された卵巣を指さしながらH医師は切り出した。

「まず、この小さな塊、これがいわゆる上皮性腫瘍です」

それは、2cmほどのサイズで乳頭状に盛り上がった白っぽい塊であった。それと似たような小さいものが、他にも1-2個あった。

しかし、それよりも目を引いたのは、その反対側についていた巨大な肉の塊だ。見た目も全く違って、こちらはまるで牛のレバーのようにつるっとした質感で、赤い肉の色をしていた。すでにメスで真っ二つに切断されており、その部分を指さしながらH医師は続けた。

「こちらの組織が何なのか、これはまだなんともいえません。ここに脂肪成分があります。もしかしたら肉腫などの可能性もありえます」

肉腫、ときいて、心臓の鼓動が高まるのを感じた。確かに、わずかではあるが、脂肪のような半透明の組織が肉塊のあいだに埋もれている。

それよりも少しショックを受けたのは、こんなに大きく堂々と姿を見せている物体の正体を、医師が「わからない」と言ったことだった。悪性腫瘍の専門医であれば、経験と勘から見ただけでたぶんこれ、といえるのかもと思ったのだが、やっぱり見た目だけでは重要なことは何一つわからず、顕微鏡的にみていくしかないということらしい。

H医師はさらに続けて、術前の診断を確認するように説明していった。

「ここに古くなった血液がこびりついています。やはり、むかしから子宮内膜症があって、そこからチョコレート嚢胞が生じて、ガン化していったのでしょう」

「卵巣ガンの場合には血栓のリスクが高いので、血液をサラサラにする薬を一週間ほど注射しましょう」

この卵巣の実物をみることができるのは最初で最後。カメラを持ってくればよかった。。でもなんとなく不謹慎な感じもするし、どうせ病院側でも撮影はしてるだろうから、やっぱりしっかり目に焼き付けておこう、と思いなおした。

そしてひと通り説明を受けたあと戻ってみると、もう手術をおえた妻は病室に戻ってきていて、数名の看護師たちが妻の術後管理のためにいろいろとやっているところだった。談話室で待っている義母と両親に合流して、いましがた見たもの、医師からの説明などを伝えた。

そして準備がおわりましたと看護師から連絡を受けて病室に戻ってみると、たくさんのチューブと酸素マスクにつながれた妻の姿があった。

意識は朦朧としているが、話しかければ少し反応がある。呼吸は荒く、声は出ない。

妻のこのような姿を初めてみて、動揺した。

「綺麗にとりきれたからね、よかったね」

弱々しくあいづちをうっているのがわかった。

このような様子で、本人と会話ができるわけでもなかったので、家族にはもう帰ってもらうことにした。

それから、看護師が頻繁に、おそらく1時間おきぐらいに様子をみにきてくれた。

酸素マスクで常に喉がカラカラになっていたが、水を飲むことは許されてないので、口を潤すために吸い飲み器で水を口にふくませて、そら豆のような形状のうがい受けに吐き出す。導尿チューブ経由で出てくる尿をためるバッグがベッドの脇にぶら下がっているが、尿の水位が上がってくるのでチューブの角度を変えてバッグに流し込む。腹に巻いた腹帯を何度も開いて傷口の状態をチェックする。腹筋がつかえず自力では寝返りもうてないので、姿勢をかえるためにベッドに敷いたバスタオルを使って持ち上げている間にくさび形の枕を左右交互に差し込んでいく。

抗生物質、ビタミン輸液、痛み止め、など点滴が接続されているのに加え、腹部からは陰圧のかかったドレーンが出ていて、自分でスイッチを押して開放する硬膜外麻酔も背中にささっている。これは安全装置がかかっていて、30分に1度しか使えないようになっている。

他人に気を遣う性格の妻は、うがいのためだけに何度もナースコールをするのは気が引けるようで、1時間おきのうがいや導尿チューブのクリアは私がやるようになった。

夜になると、麻酔が切れてきて、痛みが強く出てきた。硬膜外麻酔を限界まで使っても、効いていないようだった。

「おへそよりもちょっと上まで切ったみたいだから、硬膜外麻酔が上のほうまで届いてないんだと思うよ」

腹部の神経は、脊髄の節ごとに輪切りにした平面を取り囲むように通っているので、硬膜外麻酔がきく領域は麻酔薬が注入された脊髄の範囲と一致する。

これが届かない範囲へは、ロピオンなどの静脈注射による痛み止めに頼るしかない。

さらに、痛み止めの副作用で出てくる吐き気をおさえるために別の薬を点滴する。

文字通りの薬漬けで、ある問題に対処するとまた別の問題がでてくる。痛い、口が乾く、尿がいっぱいになる、吐き気がする、姿勢を変える、傷をチェック、血圧の計測。。。のエンドレスな繰り返し。

結局、この日はほとんど眠ることもできなかった。

手術前日

この日から、泊まり込みのため義母が妻の弟の運転で大阪からきた。

この日は、口腔外科で口内洗浄、おへその掃除、夕食までは普通に食べて下剤を服用、毛剃りのあとシャワーを浴びて、麻酔科医からのブリーフィングがある。

就寝前に安定剤の内服をすすめられたが、膀胱が圧迫されていて頻尿のため1時間おきに起きてトイレに行ってるような状況だったので、薬で強制的に眠るのは危ないということを伝えたら、医師も同意してくれた。

予定を消化しつつあった夕刻ごろ、付き添いを義母にバトンタッチして一度帰宅することにした。

入院

いよいよ待ちに待った入院。

入院に「待ちに待った」という表現を使うのは不思議かもしれないが、どうしようもない腹部の膨満感を抱えたまま、どんどん大きくなる嚢胞がいつ破裂するかもわからない状態で待ち続ける不安は大きかったので、正直、この日を迎えられた安堵感は相当なものだった。

朝一番で入院の説明をうけて手続きをすませ、そのまま荷物を持って5階の東病棟へと向かった。そこで身長と体重、血圧などの計測をすませ、ナースステーション近くの個室へと入っていった。

この日から術後3日目までは個室なので、プリペイドカードを購入して冷蔵庫とテレビの電源を入れ、下のコンビニで水などを買ってきて冷蔵庫に入れ、WifiルーターをセットアップしてパソコンやiPadを使えるようにした。

横になることができない妻のためにベッドの操作を確認し、体を起こした姿勢でいられるようにした。

とはいえ、手術は2日後で、看護師がぱらぱらと説明にくるぐらいで、特にこの日の予定はなかった。主治医の回診でも「明日は絶食ですが今日は特に制限はないので、ゆっくりしてください。食事も好きなものを食べていいですよ」と言われたので、食事も病院食をたべず、下のカフェテリアに食べに行った。

ところでこのカフェテリアの出す食事がけっこう美味しく、以後、何度もくることになるのだが、この店の名前とロゴ、セカンドオピニオンで行った大阪の病院でも見かけた気がする。もしかしたら病院を専門にしているチェーンか何かなのかもしれない。

昼過ぎ、H医師が病室へやってきた。

「手術の説明をしますので、面談室へ一緒にきてください」

談話室の隣にある面談室には、パソコンが置いてあった。そこで今までの診断内容をおさらいしつつ、インフォームドコンセントのため双方の理解を文書にまとめていく。

悪性胚細胞腫瘍の疑いがあること、主にAFPが高値であることからは卵黄嚢腫瘍、LDHが高値であることからは未分化胚細胞腫瘍、MRIで脂肪成分があることから未熟奇形腫が考えられること。また、CA19-9とCA-125が高値であることと壁在結節の存在から、上皮性卵巣癌合併の可能性も否定できないこと。超音波とMRIからも上記を疑う。PET-CTでは片側卵巣以外には明らかな転移をうたがうシグナルは認めないこと。現在の症状は腹部膨満、疼痛、頻尿。

それから、手術の内容についての説明がはじまった。Wordで用意されたテンプレートをもとに、医師がその場で文章を打ち込んでいく。

手術を選択する理由は、根治的な治療が期待できること。限界としては、病理検査の結果悪性が確定した場合には追加治療が必要になること。

術式としては、患側付属器の切除。恥骨から臍下部まで(必要なら頭側へ延長)の下腹部縦切開で開腹し、卵巣・卵管を摘出して術中凍結病理へ提出。悪性胚細胞腫瘍・境界悪性胚細胞腫瘍であれば、患側付属器切除、大網生検、腹腔内の十分な観察(切除可能な病変があれば切除)、腹水細胞診を行い、閉腹。

ここまで入力したところで手術同意書をプリンターで出力し、二人でサインした。

また、麻酔と輸血に関する同意書にもサイン。貧血気味であったことと期間に余裕がなかったことから、事前に自己血を貯血することができなかったので、長時間かかるなら輸血の可能性がでてくるが、H医師の経験では輸血が必要になるようなケースはごく稀で、とくに6時間ぐらいかかる標準術式にくらべて今回の内容は時間も短いのでまず大丈夫だろうとのこと。

妻は夕方にシャワーを浴び、就寝準備。

私もベッド脇のソファベッドをたおし、持ってきていた毛布を敷き、泊まりの準備をした。

そして持ってきていた書籍とiPadでリサーチを再開。

消灯時間がきてからも、ソファベッドで横になったままiPadとにらめっこする日々がはじまった。

セカンドオピニオン

朝6時からビデオ会議で仕事の打ち合わせを済ませたあと、父親の運転でセカンドオピニオンのため大阪の病院へ向かった。

妻本人は安静のため実家で待機。

大阪ではまず妻の実家に寄って、義母をピックアップしていくことになっている。義母はこれまで妻の病状については伝聞できいているだけだったので、直接医師から話を聞けるよい機会だと思い、同行してもらうことにした。

妻の実家に予定より早くつきそうだったので、妻の父親のお墓参りに行くことにした。

売店で線香とロウソクを購入し、墓石のあいだをかきわけていく。

墓前には、まだ新しい生花がいけてあった。きっと義母が欠かさずに手入れに来ているのだろう。

何度も寒風にかきけされながらも何とか火をつけ、手を合わせ、祈った。くれぐれもそちら側に行ってしまわないように見守ってやってくださいと祈った。

それから義母をピックアップして病院へ向かった。

市街地にあるその有名病院は、思ったより古い建物だった。移転したばかりでピカピカの県立病院にくらべると外来の動線もイマイチで、大通りに面していたのは裏口だったらしく、受付までたどりつくのに迷路のようなルートをたどっていかねばならなかった。これは足が悪くて杖をつきながら歩く義母には大変なことだった。

セカンドオピニオンの受付をし、病院の地下にある食堂で昼食をすませ、婦人科の前でひたすら待つ。

名前を呼ばれて入って行くと、婦人科部長のK医師は速達で送付してあった検査データを画面に表示していた。

そして、血液検査の数値でAFPとLDHが高いことから胚細胞腫瘍のひとつである卵黄嚢腫瘍あるいはディスジャーミノーマが疑われること、あるいは卵巣ガンならば類内膜腺癌がありうること、MRIやPET-CTの映像を見た感じでは片方の卵巣に病巣部が限局しており、おそらく卵巣悪性腫瘍Ia期であること、ただしIa期と思っていてもリンパを生検してみると転移がみられることも15%程度あること、などを説明していった。

父と義母は、MRI画像をみるのは初めてだったので、その卵巣の腫れの大きさをみて改めて驚いた様子だった。

いろいろと聞きたかったことを聞いてみた。

「主治医からは、この壁在結節は明細胞腺癌かもしれないと言われたのですが、先生からみてどうでしょうか」

「わかりませんが、これはきっと違うと思います」

実は、初診と再診のあいだにセカンドオピニオンの申請書を準備していたので、質問内容は初診の結果にもとづくもので、標準術式として言われた両側の卵巣、子宮、リンパ、大網まで全部切ると言われたのだが、明確な病巣部である患側付属器(卵巣と卵管)だけの切除という縮小手術はできないのか?そういう選択をした場合のリスクは?というのがもともと聞きたい内容だった。

しかし、その後の再診で胚細胞腫瘍の可能性がでてきたことで、患側付属器のみの切除ですませられる可能性がでてきていた。

そのことについて触れると、

「縮小手術は、妊孕性の温存を強く希望される場合にのみ行います。お話をうかがっていると、どうも縮小手術の動機が妊孕性の温存とは違うところにあるように思いますので、おすすめしません」

と、にべもなくバッサリ。

そのとき、考えはまとまらなかったが、標準治療として定められているロジックを杓子定規にあてはめていこうとする医師の姿勢に、強い違和感を感じた。どちらに転んでも生涯その選択の重みを背負って生きていくのは患者本人なのに、なぜ患者が自己決定してはいけないのか。なぜ動機の種類を問題にされなければいけないのか。

とはいえ、限られた時間で医師と論争しても生産的ではないので、短い時間で最大限の情報を引き出すべく、つづけて質問をした。

術後の感染症のリスクは5-6%程度であること、リンパ節郭清をした場合にリンパ浮腫などの後遺症が残る確率は30%程度であること、またリンパ節郭清した場合にどういうふうにリンパ液が回収されるのかという質問には、皮膚の下を通って自然とルートが形成される場合には後遺症が残らない、とのことだった。

また、先ほどの話の流れで患側付属器しかとらないという前提の話はしにくくなっていたので、「再発」を「併発」と言い換えて聞いてみた。

「今回の胚細胞腫瘍の場合、もう一方の卵巣に併発する可能性ってどのぐらいあるんですか?」 「ほとんどが片側性です」

ここまで約35分、個人的に準備してきていた質問はひととおり聞けたので、セカンドオピニオンに割り当てられていた時間である45分より少し早くなったが、切り上げることになった。

やはり、医師とディスカッションするためには患者サイドもとことん勉強しておく必要がある、ということを改めて感じた。今回、同席していた父と義母は、2-3の点について質問というよりは確認に近いような応答をした程度で、あまり突っ込んだ質問をするということはなかった。せっかくお金を払って専門家に何でも聞ける貴重な時間をいただいたのだし、相手は主治医ではないのだから遠慮をする必要はまったくないのだが、ほとんどのやりとりは私と医師との間で行われた。

私は、これまでの診察を通じて、事前に質問したい内容をメモにまとめてくること、話の最中に気になったことはメモにとること、などの重要性を実感した。医師との面談中には想定外の新しい情報がでてくることがあり、そうすると動揺してしまって何を話そうとしていたのか忘れてしまうことがある。そういうときにメモは大変役に立つ。

それだけではない。世の中のあらゆるプロフェッショナルと同様に、医師は大変忙しい。その医師の時間を尊重し、短い時間で最大限の情報を引き出す濃厚な時間を持つように心がけることが、「患者力」を高めるコツであると思う。

そんなこんなで、どちらかというと事前に得ていた知識の再確認という位置づけにはなったが、セカンドオピニオンはやってよかったと思う。大阪のブランド病院の婦人科医師だからといって、誰も知らないようなことを知っているということもなく、これが現代医療の水準なのだということを確認するという意味合いであっても。

明日はいよいよ入院。

お祓い

男の厄年は、数え年で25歳、42歳、61歳とされている。なかでも42歳は大厄といわれている。

私は39歳だが、数えで42歳ということは実年齢で40-41歳が本厄、39-40歳が前厄となる。

つまり、私は今年、前厄ということになる。

義母は古いしきたりを守る人で、今回のことでも「厄祓いに行って来なさい」と言ってきていた。

私は元来、神仏の類を一切信じないほうである。

いつも旅先などで神社仏閣にお賽銭する機会があっても、とくに叶えたい願いごともないので妻の無病息災を祈願していたぐらいである。そんな平凡な願いすらも通じなかったわけだが。。。

それでも、今回ばかりは本当に祈るような気持ちだったので、迷わずお祓いにいくことにした。

実家のすぐ近くにある神社に電話をいれて、妻と母親と三人でかけつけた。

とても寒い板の間でストーブだけで暖を取りながら着席し、あれが玉串か、そういえば靖国神社玉串料を税金から支払って違憲判決までくらった知事がいたなぁ。。。などとくだらないことを思い出す。

まったく作法にうといので、二礼二拍一礼すら間違えてばつが悪かったが、なんとかお祓いの儀式をすませると、神妙な気持ちになった。

本気で神頼みしたのは、人生ではじめてかもしれない。

このあと、親族からぞくぞくとお守りが送られてきて、全部もっていって入院することになる。

つくづくありがたかった。

手術内容についての検討

告知を受けてから手術までの10日間ほどの期間は、手術そのものに関係する事項、すなわちどこまで切ってどこまで切らないのがベストか、に集中してリサーチすると決めていた。術後のことは術後に考えればいいが、手術で切り取ってしまった部位は永遠に失われてしまうのだから、今が正念場だ。人間の体に不要なものなんて存在しないのだから、どんなに細かいことでも全部調べておき、絶対に後悔のない決定をするべきだというのが夫婦共通の考えだった。

原則として、明らかな病巣部はとりのぞきたいが、予想や予防を目的とした切除はやりたくない、という考えであった。

これまでのところ、疑問点は主に以下の3つだった。

  • 患側付属器(卵巣と卵管)だけ切るか、それとも両側付属器と子宮までとるべきか
  • リンパ節は郭清すべきか、それとも生検に留めるべきか、それとも一切切らないべきか
  • 大網は全摘すべきか、それとも部分切除に留めるべきか、それとも生検にとどめるべきか

本来なら医師に聞けばよいのだろうが、医師は標準ガイドラインに沿った治療選択をするのであって、上記のような意思決定はそもそも患者に託されたものではない、と感じていたので、医師との面談の場で持ちだしてしまうと、反論の余地なく勢いで決まってしまう気がしたので、きっちり理論武装を終えるまでは医師の意図から外れた、つまり標準から外れた術式について話すのははばかられたのだ。

たとえば、両側の卵巣をとってしまうと、女性ホルモンがほとんど生成されなくなってしまうので、ホットフラッシュなどの更年期障害がでてしまう。そうなったら女性ホルモン補充パッチを使えばいいと説明されるのだが、そんな簡単なことではないはずだと直感的に思った。ステロイドの例を持ち出すまでもなく、本来は絶妙なバランスで体内調整されているホルモンを人工的に決まった量で投与しつづけることが負の作用をもたらさないはずがない、という考えはそれほどおかしいことだとは思えない。

また、リンパ節を郭清すれば、リンパ浮腫のリスクが生涯つきまとう。「リンパ浮腫」で画像検索したときのショックは相当なものだったようで、ただでさえ足がむくみやすい妻は特にこれを気にしていた。私も、各種論文に目を通していて、リンパ節郭清が生存率に寄与せず、診断的意義(I期かIII期かはリンパをとらないと確定できない)はあるが治療的意義はほとんどない、というエビデンスは入手していた。診断的意義、つまり医学データのためだけに大事な臓器を取り去るなんてとんでもない、と思った。

リンパというのは、血液がはこぶ酸素や栄養を末端の細胞にとどけた後、老廃物などを回収して静脈に戻していくための導管である。そのとき細菌やウィルスなどの異物が混じって血管内にとりこまれないように、リンパ節は防衛の最前線として機能するところである。そんな大切な機能を失うからには、相当に大きな理由がなくては釣り合わない。

乳がんの場合には、センチネルリンパ節といって、がん細胞が転移するときに最初に到達する可能性が極めて高いことがわかっているリンパ節というのがある。だから、そこだけを切除して生検すれば、リンパへの転移があるかどうか、かなりの精度でわかる。

しかし、卵巣がんの場合には、いまだセンチネルリンパ節は見つかっておらず、ランダムに切り取って生検しても診断的意義は低い。そのため、骨盤リンパ節から傍大動脈リンパ節まで、広範囲に取り切って、ぜんぶ生検してまわるしかない、というのが主流の考え方になっている。

となると、明らかに視覚的にそれとわかる腫れが見つかれば取って欲しいが、そうでない場合、全部とるか、全部とらないか、という選択肢になると考えた。そして、私達の出した結論は、リンパは一切とらない、というものだった。

最後に、よくわからないのが大網だ。大網というのは、それまでその存在すら知らなかったが、胃と横行結腸からぶら下がった黄色いエプロンのような脂肪組織で、お腹の皮と小腸が癒着することをふせぐ潤滑機能を果たしたり、腹膜炎が内蔵に飛び火しないようにガードしたりしている、ということらしい。この程度の情報すらネットや書籍ではなかなか手に入らないぐらい、あまり関心をもたれていない臓器のようだった。闘病記などをみていても、大網の切除に反対した、という人は皆無だった。

実際、切除をしたことによる副作用と思われる現象はほとんど見当たらないし、一方で卵巣ガンが腹膜播種を起こしたときには大網にびっしりガンがこびりついていた、というような記述も見かけるので、取ってしまってもいいような気はしたが、やはり原則にもどって「明らかな病変がない限り、予防を目的とした切除はやりたくない」と判断し、最低限の生検程度ならいいか、と考えたのだった。

再診で診断が胚細胞腫瘍に

二度目の外来の日。

朝一番でPET-CTを受けるために病院へ。PET-CTというのは、がん細胞がブドウ糖をより選択的に代謝する性質から、放射能を加えたグルコースを注射して全身への転移を調べるものだ。入り口には放射能のハザードシンボルが掲げられ、インターフォンで呼びださなければ入室もできない、ものものしい空間である。そんなPET-CTを撮ったのち、レントゲンと心電図、それから追加の血液検査をすませる。

ここで本来ならPET-CTの前に血液検査を済ませる予定だったのだが、血液検査に長い行列ができていてたので確認してもらったところ、PET-CTのほうがスケジュール優先なので先に行ってきてくださいと言われたのだった。あとでわかることだが、PET-CTをやったあとで血液検査をやるのはちょっとまずいことではあるのだが。。。

しばらくして診察室に呼ばれたとき、H医師は前回より明るい顔で言った。

「新しくわかったことがあります。悪いニュースではありません。もしかしてと思って追加で血液検査をしてみたのですが、AFPとLDHの数値が高いです。これは、胚細胞腫瘍に特異的なマーカーです」

「それって、若い人がなるっていう。。。」

「そうです」

この3日間、真剣にリサーチしていたので、卵巣腫瘍のタイプについてはだいぶわかるようになってきていた。

「ディスジャーミノーマあるいは卵黄嚢腫瘍、未熟奇形腫などが考えられます。普通は10代や20代の人がなるものなのですが、ひょっとしたら。。。と思って検査項目を追加してみて良かったです」

「胚細胞腫瘍には、抗がん剤がよく効きます。BEP療法という、これはかなりきつい副作用があるものなのですが、完治が見込めます。また、妊孕性を温存するため子宮ともう一方の卵巣を残すことも可能かもしれません」

ちらっと横をみてみると、いつも黙って話をきいている奥さんが涙ぐんでいた。この数日間、どんどん悪い話を聞かされて不安に押しつぶされそうになっていた心に、医師の「完治」や「温存」という言葉にはとてつもない重みがあった。

とはいえ、「きつい副作用」という言葉を発するときに医師の顔が申し訳なさそうになるのを見逃さなかった。そういうからには、そうとう覚悟のいる抗がん剤なのだろう、と理解した。

H医師からの話がひととおり終わった頃を見計らって、質問したいことをメモした紙を取り出し、たてつづけにきいていった。

まず、約一年前にアメリカのERで撮影していたCT映像ファイルを見せ(これはスキャンしてPDFで保管したものがDropboxに入っていた)、

「10ヶ月前には左卵巣は3-4cm程度のサイズでした。こんなに急速にここまで大きくなるものでしょうか?」

「胚細胞腫瘍は、急速に大きくなるんです」

セカンドオピニオンについても切り出した。

「それから、やれることは全部やりきっておきたいと考えて、大阪の病院でセカンドオピニオンもやりたいのですが、紹介状を書いていただけないでしょうか」

「いいですよ、いくらでも書きますよ」

さらに続けて、

「奥さんはずっと横になって眠れない状況が続いているのですが、入院してから手術までの間、ベッドは座った姿勢にしておくことはできるのでしょうか」

「同じ理由で、ふとんをかけて寝ることができないと思うので、電気毛布もっていってもいいでしょうか、なんだか妙に細かい話ばかりで恐縮ですが」

あまりに変な質問だったためか、ふと場の雰囲気がほぐれたのを感じた。

それから、強い痛みが継続しており処方されたセレコックスがあまり効いていない様子だったので、結局アメリカから持ち帰ってきたAdvilを倍の用量で飲み続けており、そろそろなくなりそうなことに話がおよぶと、

「Advil、いい薬ですよねぇ。安くてどこでも買えるしよく効くし。私もアメリカにいったらドラッグストアでお土産としてたくさん買ってくるんですよ」

「先生、それでお願いがあるのですが、そろそろ持ち帰ってきたAdvilが底をつきそうなので、同じ成分のイブプロフェン200mgのお薬を出していただけませんか?日本だとブルフェンという名前で処方されてるみたいですけど」

「わかりました、出しておきましょう」

診察室をでたあと、紹介状と検査データ一式が記録されたCDを受け取り、近くの処方薬局に駆け込んでブルフェンを受け取って、そのあとまた郵便局に寄って、大阪の病院にセカンドオピニオン申込書を速達で送付した。10日、11日、12日と連休なので、翌日9日までに届かなければ、入院前日の13日の予約に間に合わないと言われていたからだ。