手術当日
朝、5amぐらいに目が覚める。妻の様子を見に行くと、なんとか眠れている様子。背中に貼った二枚のパッチが効いたか?
いつものように無意識に布団をはいでいたので、かけなおしてソファの寝袋に戻る。しかし、なんとなく目が冴えて眠れない。外はまだ暗い。
しばらくすると母が起きてきて、窓から外の景色をみているのがわかる。高層階なので、180度地平線を見渡す景色のなかにラスベガス・ストリップの巨大な建造物がならんでいる。暗闇の中でお互いの存在に気がつく。後で話をきくと、2am過ぎに目がさめてしまったようだ。
6:30amになったので、母と一緒に一階へコーヒーをとりにいく。
このコンドミニアムでは、毎朝いれたてのスターバックスのコーヒーが4種類、無料で提供される。とはいっても、管理費に含まれているわけだけれど。週末にはパンやフルーツや卵料理などもフリーで提供される。週末には、いつも妻と二人でこの朝食をとりにいくのがお決まりだった。
帰り道、メールボックスの場所なども一応説明する。
部屋に戻ってきてみると、妻も起きていた。
妻は絶飲食を続けているので、母親と二人でジュースを作って飲む。人参とリンゴとオレンジとレモン。
妻がキッチンの使い方を教えつつ、全粒粉パンにワカモーレとスモークサーモン、ゆで卵で朝食を作ってくれる。
洗濯機を回したり、犬のトイレの始末をしたり、ゴミを捨てに行ったり、ひととおり母親に予行演習してもらう。とくに玄関はオートロックだから気をつけて、と念をおす。
しかし8amぐらいになるとやることがなくなってきて、なんとなく3人で記念撮影してみたり。
病院の予約時間まで時間があるのに、薬があまり効かなくて苦しそう。それなのに、母が咳をしたら私に「青汁を作って飲ませてあげて」と気遣いをみせる。
痛みが強くなってくると、床に寝転がって体を丸める。この姿勢が楽らしい。顔色がよくないし、やはり痛いというので、やむを得ずホッカイロを背中に貼ることにする。温めるとFentanylが効きすぎるかもしれないので、一応シャツ二枚越し。
いよいよ予定の時間が近づいてきたので、病院へ。なるべく体にひびかないよう、気をつけて車を運転する。
しかし、手続きを済ませてみると、通されたのは普通の待合室で、ここで名前が呼ばれるまで待つのだという。
痛みと昨日からの絶食で妻の苦痛は限界に近づいている。ここでいつまで待たされるのか。受付に何度確認しても、どうしようもない、といった顔をされる。
他にイライラをぶつける先もなく、何度も母にメッセージを送る。
私「やっぱり待たされる。。」
母「どれくらい?」
私「手術は3pmから、準備に2時間みてるらしいけど。ドクターは3pmギリギリまでこないって。」
母「部屋のベッドで待機してるの?」
私「待合室の椅子」
母「そんな〜」
母「せめてベッドで寝かせてもらえるよう頼んでみたら?Iちゃんは我慢強すぎて、苦しそうに見えないから軽くあつかわれてるのかもしれないよ。ま、言っても無駄なことは重々承知で言ってるんだけどね。」
私「無理っていわれた」
母「やっぱり」
結局、3pmまでこの状態で2時間待つことになった。やっと名前が呼ばれると、フラフラの状態なのですぐに車椅子を出してもらい、乗せられてブリーフィングルームに入っていきながら「妻はいま低血糖で危険な状態だからすぐに点滴してほしい」とナースに要求を伝える。
応対してくれたナースは皆いい人で、すぐにドクターにかけあって点滴を準備してくれた。
そして、サブのドクターFがあらわれて初対面、手術の内容について確認される。キャリア40年以上のベテランとは聞いていたが、70近い高齢にもかかわらず背筋はすっと伸びていて、長身で筋肉隆々。低い迫力のある声の持ち主だった。その後、メインの女医ドクターCも登場。事前にいろいろと打ち合わせ済みなのかと思えば、合ったのは久々らしく、今回の手術の内容についてその場でドクターFに説明をはじめる。
その後、アジア系の麻酔科医が登場。指示を守ってきちんと絶飲食してきたか?と確認され、さきほど待たされている間にあまりに調子が悪くなったので水をほんの一口だけ飲んだと答えると、表情が凍りつき、「今日はもう手術できない」と言い出した。
口の乾燥がひどかったので、本当に10ccとか口を濡らす程度だと言っても、「ひと口だろうがボトル一本がぶ飲みだろうが関係ない。ちょっとでも何か口にいれると、胃腸が動いて、麻酔をすると吐き気が出てくる。吐いたものが喉に詰まると大変なことになる」とすごい剣幕でかえしてくる。ドクターCも説得にあたってくれたが、「麻酔の結果について責任をとるのは私だ。私が判断する」と言ってきかない。
そうはいっても、ドクターCは今日このためだけにこの病院にきてるし、ドクターFの時間もおさえている。結局、皆の説得で、あと30分だけ待って手術を開始することになった。
今日これだけいろいろと我慢したのに手術できなくなったら大変なことになるぞと冷や汗をかいたけど、なんとか進められることになった。
いよいよ、予定の時間がきて、手術室へ向かう。妻を送り出すとき、手を握って「しっかりね」と声をかける。
その後、手術が終わるまでは待合室で待機だ。
掲示板には、名前ではなく番号でステータスが表示されている。
番号9406のステータスが3:21pmからIn Operating Roomに変わる。いよいよ手術開始だ。
この待っている時間も不安で、母とメッセージをやりとりする。
母「K(犬の名前)がなんか感じてるのかもしれないけど、突然動き回り始めた」
私「Kは音に敏感やから、ガンガンiPhoneの通知音が鳴ってるからかもな」
母「そうかもしれんね。もう私にべったりですわ。」
私「そっちは何か困ったことない?昨日のカレーたべた?」
母「カレー食べたで。快適に過ごしてるよ。昼寝もしたし。」
私「それならよかった。Kのトイレときどき見てあげてな。」
母「おしっこしたからごほうびあげたよ。それ以来ずっと膝の上。w」
私「そっかw」
母「一緒にテレビ鑑賞してる。Kは目が見えないのに、ずっと画面に向かってる。」
こうした何気ないやりとりで気を紛らわせる。
ほぼ予定どおり2時間きっかりの5:30pm頃、ドクターCが出てきて、「手術は終わったけど、ちょっと説明したいことがあるから」来てくれと言われる。
ドクターについていくと、待合室からオペ室につづく廊下で振り返り、切り出した。
「予定通り、右卵巣・卵管と子宮、それからリンパ節と大網も少しとりました。それから、盲腸も。どれも、異常はありませんでした。けれど、左側のリンパ節が数えきれないぐらいたくさん腫れていたので、切除しながらどんどん上にたどっていくと、大動脈に巻き付いているところに大きな腫瘍があって、そこから先は取りきれなかったので手術を諦めて閉じました。ここから先は化学療法になります。」
と衝撃的なことを言われる。
突っ込みどころが多すぎて、頭が追いつかない。結局、再発をうたがった右卵巣や子宮などには異常はみつからなかった?でも、事前に同意した記憶のない盲腸までとった?しかも、一番肝心の腫瘍はとりきれずに諦めた?
瞬時、頭が真っ白になりかけたが、続けて出てきた言葉がさらに追い打ちをかける。
「これは、卵巣がんではないと思う。前回のときも説明したと思うけど、ブヨブヨしていて、柔らかい。これは、おそらくLymphoma(悪性リンパ腫)だと思う。腺癌と奇形腫の併発だけでもめずらしいのに、3つめの腫瘍がでてくるなんてレア中のレアだけど、幸いLymphomaなら化学療法がよく効くから、気を落とさないで」
えっ?Lymphoma?
あまりに予想外の病名に戸惑う。
そもそも、がんという病気は病理診断による情報量が圧倒的で、見た目でそれが何であるのかは簡単には判別できないということを前回の治療で学んだ。
それなのに、今このドクターは、これは卵巣がんではないといい、しかも悪性リンパ腫という、まったく別の腫瘍であると言っている。しかし、それがほんとうに悪性リンパ腫なのかどうかはともかく、「卵巣がんではない」と言い切るためには、一般的な卵巣がんとはどういうものであるかという経験の蓄積と、それに照らして違うといえるだけの強い根拠がなければ出てくる言葉ではないはずだ。だから、少なくとも「普通の」卵巣がんではないのだろう、ということは信じることができた。
しかし、意外なほど冷静に頭は回転し、今しか聞けない、今きくべきことを考えて質問した。本当にLymphomaかどうかは最終的な病理診断の結果を待たねばならないのではないか?化学療法は日本で受けたいのだが可能か?などと今後のプロセスについて確認していく。
優秀なアメリカ人は、なんでもパッパッと手早く効率よく仕事をすすめていくが、効率を落とすタスクが混ざってきたときの諦めも早い傾向があるような気がしている。今回のように想定外の難しい局面に出くわしたとき、これがもし日本人医師であったならば粘り強く手術を続けたのではないか、いや病院のシステムをみてると手術室を使える時間は細かく割り振られているようだから、やはり2時間の予定が4時間になるような手術はできなかっただろう、などと詮ない想像をしてしまう。
どう受け止めればいいのかわからないけど、もう手術は終わってしまった。これからもう一回、とはいかない。いまさら、何を言ってもしかたがないことだ。
時間とともに、先ほど言われたことの重みがズーンとのしかかってくる。いろいろと複雑な状況ではあるが、とにかく結論としては「手術は成功ではなかった」のだ。いま、妻は回復室で麻酔から目が覚めるのを待っている。このあと病室に戻った時、なんといって伝えればよいのか。
そうこうしているうちに、6:30pm頃にあとから出てきたドクターFから挨拶を受ける。手術は無事終わったから。。。などと言われた気がするが、もう上の空だったので何も覚えていない。結局、手術は成功しなかったのだから。
7:10pm、まだディスプレイの表示はIn Operating Roomのままだけど、そろそろ回復室から戻ってくる頃だ。
7:30pm過ぎ、とうとう連絡があり、病室番号を告げられる。ダッシュで病室へ向かう。
病室に着いてみると、まだ妻の姿はない。思ったよりかなり広い空間だ。
付き添い用の椅子は、背もたれを倒すと足のところも持ち上がって、フルフラットになる。キャスターもロックできるので、寝る場所と向きを決めて固定すれば、この上に寝袋を敷いて寝ることができそうだ。
ノートパソコンを置ける台と、電源もある。ゲスト用の無料Wifiまで用意されているので、ここで一日過ごすことは特に問題なさそうだ。
今のうちに晩飯を食べておこうと、一階のカフェテリアへ行ってサンドイッチを買ってくる。これから入院生活が長くなる可能性を考えて、ざっと見ていくが、良心的な価格設定だと感じる。
戻ってくると、ちょうど妻が病室に運び込まれるところだった。意識はもう戻っている。
前回の日本での手術のときには、手術直後といえば意識ももうろうとしていて、呼吸も苦しそうにしていて声もほとんど出なかったのだが、今回は割と意識もはっきりしていて、声を出して話すこともできる。アメリカの治療が違うのか、それとも二度目の手術なので慣れもあるのか。
妻は、自分でもそれなりに術後の状態がマシであることがわかったのか、実家の義母に電話して手術終わったよと伝えたい、という。
今日、4月17日は、義母の誕生日だ。
いつも妻は、自分の両親の誕生日、私の両親の誕生日、母の日や父の日には、自分でセレクトしたアメリカならではのアイテムを箱いっぱいに詰め込んだプレゼントを贈っていた。今回は、誕生日プレゼントを贈れないだけでなく、自分のことで心配をかけることになってしまって残念、という気持ちが強いようだった。
むろん、そんなことを親が気にするはずもなく、ただ娘の無事を祈っているだけなのは当然のことで、「お義母さんはわかってくれるよ」というような言葉を口に出すことさえ陳腐に思えて、そういうときには無言で手を握った。
義母に電話がつながって、妻の耳元へもっていってあげると、自分の口から手術が無事に終わったことを伝えることができて、満足そうな表情をした。
2年半前に父親をなくした妻は、いつも母親を安心させることに腐心し、自分の調子が悪い時には話をしたがらなかった。これはこのあともずっと続く姿勢だった。
その後も、妻のリクエストで、心配してくれている地元の幼なじみの友人たちに手術が無事おわったことを伝えるメールを代筆した。
手術前日、母がヘルプに来てくれる
今日から明日の手術まで絶食で、透明の液体しか飲むのが許されない。
胃腸をからっぽにするために、朝起きてMagnesium Citrateの服用開始。10ozでも多いのでこれを半分量と、水を8ozあわせて飲む。
また、赤色のものを避けろと言われていたので、今日はリンゴ、オレンジ、レモンのみを使ってスロージューサーでしぼり、さらにストレーナーで濾して繊維の残らないクリアーなジュースを作った。
今日は、明日から始まる入院生活のヘルプのため、母が飛んできてくれることになっている。母は昔からインドやパレスチナのような難易度の高い国へふらっと一人旅に出て行くようなタイプで、フットワークが軽かったのが幸いした。昨日お願いしてすぐチケットをとり、今日にはもう到着することになっている。関空からラスベガスへは直行便がなく、サンフランシスコ空港を経由してくるので、待ち時間なども含めたDoor-to-doorでの移動時間は24時間近くになる。
9amに仕事の打ち合わせのあと、母親に電話してみてサンフランシスコ空港に着いたことを確認。これからラスベガスに向けて国内線へ乗り換えだ。色々と心配していたけど、どうやら何も設定しなくてもきちんとiPhoneはローミングできていたようだ。ただ、通話料は一回あたり約150円かかるのであまり気軽には使えない。こういうとき、空港の無料Wifiはいろいろ英語で同意を求めたり広告を見せたりと仕組みが複雑なので母親のような高齢者には使えないのが難点だ。
お昼に妻が目玉焼きとトウモロコシのグリルを作ってくれる。手術の前日で、しかも本人は何も食べれないというのに。。。ありがたく完食した。
昼過ぎ、追加で仕事をしてから買い物のおつかいに出かける。
天然のDish SoapとDishwasher PowderをゲットするためWhole Foods Marketへ行き、散々迷ったあげく、The Honest Companyブランドの商品で統一する。その後、ペットシーツ(英語ではTraining Padという)をまとめ買いしてストックしておくためにSmith'sへ。母の留守番中に補充の必要がないようにしておく。
3pm過ぎ、母のラスベガス空港到着に合わせて迎えに行く。空港まで車で10分という至近距離のロケーションはやはり便利。Dゲートから出てくるのをつかまえて、19番カルーセルへ。
自宅に到着すると、母は妻の姿をみて「思ったより元気そうで安心した」という。ただ、昨日もらった痛み止めの薬があまり効かないのでつらそう。
初めて母にこの新居をお披露目するのがこんな形になって残念だけれど、それでもせっかく来たのだから滞在中は「アメリカ暮らし」を楽しんでいってほしいと思う。
明日からは母にひとりで留守番をしてもらうことになるので、うちにある家電の使い方や冷蔵庫の中身、生活用品の配置などを手短にブリーフィング。しかし、きっと一度にたくさん説明されても覚えきれないだろうから、何か困ったら病院からビデオチャットで話せるように、母の持ってきたMacBook / iPad / iPhoneをインターネットに接続できるようセットアップ。困ったときの通信機器は生命線だ。
夜になって、父と二人ではなかなか行く機会がないインド料理が食べたいという母のリクエストにこたえて、妻があのお店がいいんじゃない?とチョイスしてくれる。
ただ、本人は絶食中なので二人でいってくることに。Masala Dosa, Saag Paneer, Chicken Tikka Masalaなどを食べる。母親はいたく気に入ったらしく、食べきれなかった分を翌日食べる用にボックスに入れて持ち帰り。
また、「間違えて似た名前の別のお店のGrouponを買っちゃったよー返金申請しなきゃ」という感じで妻と軽い会話をしたりして、手術前だというのにそれほど悲壮感なく時間を過ごせることに、ささやかな幸せを感じる。
帰宅してから母にコンドミニアムの設備を少し内覧。ベガスのこの時期は、8pmでもまだ明るい。ジム、プール、カバーニャ、ジャグジー、サウナ、マッサージルーム、ビジネスセンター、などなどを案内してまわる。ホテルのような設備にややテンションの上がる母。
妻はといえば、朝のんだMagnesium Citrateは効かなかったらしく、お通じはほとんどなし。結局、Fleet Enema(浣腸)に頼ることに。ところが、このEnema、70%増量とかで230mlという特大サイズ。イチジク浣腸をイメージしてると衝撃のの大きさ。でかけりゃいいってもんじゃないと思うんだけど。。。
それから、痛み止めHydromorphoneの副作用で嘔吐してしまったらしい。やはり麻薬系の痛み止めは副作用もきついようだ。
その後、皮膚に貼るパッチタイプの痛み止めFentanylのことを調べていてその説明に驚愕。いわく、モルヒネの80倍ぐらい強力で、経皮以外のルートで摂取、たとえば舐めたら即死するぐらいの超危険物質らしい。使い終わったパッチでも子供やペットが舐めて死んでしまうケースが多いらしく、使い終わったら粘着面を貼りあわせてトイレで流せとのこと。
あと、12mcg/hrという単位を目にしたのも初めて。経皮吸収のペースを示すもので、micrograms per hourのことらしい。体温が上がると吸収量が増えるらしいので気をつけなければ。
とりあえず、lowest dosageでは効いてないようなので、二枚目を貼り付け。72時間持続するらしいので、明日の手術まで持ってくれればいいのだけど。
この夜、妻は寝返りをうつのも苦しそうなので、私はソファで寝ることに。母には、予定通りゲストルームに設置したエアベットで寝てもらう。
手術の準備、Pre-admissionと処方薬
昨日と同じ11am、Wクリニックに行く。
ここからは、ドクターから事務担当の女性に交代してどんどん話が進んでいく。
- 手術は、このクリニックではなく大病院のオペ室で行う。
- メインの執刀医はここのドクターだが、サブで経験豊富なベテランのドクターもつく。
- 内容は開腹手術で「全部とる」、右卵巣・卵管・子宮、それから関連するリンパ節。全体で2時間。
- 手術は2日後の17日。
- 入院前にpre-admissionの手続きが必要なので今日この足で病院へ行って済ませておく。
- このクリニックのポリシーで、支払いは今すぐ前金で$3000。
そして、大量にある書類にサインしていき、支払いを済ませる。
途中でドクターがやってきたので、昨日、日本のH医師から確認事項として聞いていた質問状のプリントを渡す。
- 腫瘍マーカーの結果は早めに出るか -> Yes
- 手術の目的は大網やリンパ節も含むoptimal debulking surgeryを目指すものか -> Yes
- 術中の腹腔内洗浄と細胞診、腹膜播種の視診は行われるか -> Yes
- これは再発ではなく縮小治療によるもので、抗がん剤に耐性をつけた腫瘍ではないため、初回治療に準じた治療を薦める -> OK
さらに、私自身も気になっていた質問項目が続く。
- 保険会社のpre-authorizationは通っているか? -> これは事務の人に聞いてほしい
- サブの外科医の名前と婦人科腫瘍の経験は? -> ドクターFはLA時代から40年以上の経験があり、ベガスでは1番の婦人科医。実は私のがんも彼が手術してくれた
- 術中に迅速凍結病理診断は行われるか? -> Yes
- 病理診断の結果がでるまでの期間は? -> だいたい1週間程度
- 術後、抗癌剤治療のため日本に帰国するかもしれないが、結果が出揃ってないときのためにメールなどでコミュニケーションを継続できるか? -> Yes
- 卵巣がんや子宮がんの経験例数は? -> ドクターFは「thousands(千の桁)」(ドクターC自身の経験については聞きそびれ)
- 入院中、妻の付き添いで私も寝泊まりできるか? -> Yes
この話をしている途中で、ドクターC自身が婦人科がんのサバイバーであること、またドクターFがそのときの執刀医で、それ以降ずっと付き合いがあり、仕事でもこうしてパートナーとして信頼関係をもってやってきている、というような話を聞いて、爆発しそうになっていた不安が少しだけやわらぐのを感じたのだった。
さらに、途中で昨日の腫瘍マーカーの結果が出てきた。
その結果は、驚くべきことに、全ての数値が陰性になっていたのだった。前回の3月5日の検査ではCA 19-9だけ、ほんの少し基準値を上回っていたのが、今回はそれも基準値を大きく下回っていたのだ。
"So this is good news!"
と力強いドクターの声を聞いて、妻の目に涙がたまってくるのに気が付く。何もかもが悪い方向へとどんどん転がり落ちていくような状況が続いたあとでは、こういう小さなことでも良い知らせがあれば心が動かされるのは自然なことだろう。
しかし私はというと、腫瘍マーカーが陰性なのに明らかに再発の症状があるということは、今後の経過を見ていく簡便なツールとしての腫瘍マーカーが使えなくなったということであり、かえって不安を覚えたのだった。
その後、痛み止めのための処方箋を書いてもらい、クリニックをあとにしてすぐM病院へ向かった。
M病院に到着してpre-admissionの手続きに入ると、ここでも前金で$2500を払えと言われる。実際に病院へ支払うことになるであろうと予測される金額よりはかなり低かったのですぐに払ったけれども、今ここで金が払えなければ問答無用で門前払いですよという態度に、正直あまり良い気はしなかった。
そして、入院生活は個室になるのか、私も付き添いで寝泊まりできるのか、と質問すると、「うちの病院はほとんどが個室です。付き添いで宿泊もできるようになってます」という回答で、安心する。しかし、日本なら大部屋か個室かで費用も大きく異なってくるのだが、アメリカでは逆にそれは個人の選択ではないのだろうか。保険会社が決めてしまうということはありそうだ。
こうして事務的な手続きを終えたあと、X線をとったり採血をしたり、ナースによる問診があったりして、そのあとに入院に関する免責事項の同意をとるために、日本語の話せる通訳に電話して妻とのやりとりを録音するという一幕があったのだが、その通訳の日本語があまりにもカタコトで何を言ってるのかわからず、結局は私が横から通訳してなんとか終わらせることができたのだった。フィリピン系のそのナースはとてもフレンドリーで、がん治療という重い手術を控えた患者に不安を与えない程度に明るい態度で接してくれたのはありがたかった。
M病院をあとにして、次はドラッグストアに向かう。処方されていたのはHydromorphoneという飲み薬とFentanylという皮膚にはるパッチの薬だったのだが、オーダーして待っている時間のあいだに「Fentanylの在庫がない」という電話がかかってきて、その後はラスベガス中を走り回って4軒目にようやく見つかったのだった。
しかし、まだ話は終わらない。薬を処方してもらっている間に遅めのランチを食べていたところ、そのドラッグストアから電話がかかってきて、「保険会社に確認したところ、Fentanylに保険が使えないらしいけど、どうする?」と聞いてきた。保険が効かなければ$100もする薬だ。Wクリニックに電話して、保険が効かないと言われたこと、それから他のジェネリック薬がないか、などを問い合わせたのだが、この薬を代替するようなジェネリックはないと言われる。
とはいえ、妻の腰の痛みを軽減するためなら、選択肢はない。仕方がないので$100を払うことにしたのだった。
この時点で、すでに$6000を超える出費になっている。この先、どこまで医療費が膨らんでいくのか、病気そのものに加えて経済的な不安も相変わらず続く。しかし、自分の命よりも大切な妻のことで、経済的な問題だけで治療の内容を妥協するということは一切考えられなかったので、あとでどのような困難が待っているとしても自分が背負っていこうと決心したのだった。
そして、明後日からの入院に備えて、アウトドア用品店REIへ寝袋を買いに行く。
日本の病院では個室にソファがあったのでそこで寝泊まりできた。アメリカの病室がどのような形式なのかわからないけど、まぁ最悪は床の上ででも寝られればいいやということで、一般的な寝袋を購入することにする。空調の効いた室内だし、4月のラスベガスというのは寒くも暑くもない最高の季節なので、軽くて薄手のぐるぐる巻きにすればコンパクトに収納できるタイプのものを選ぶ。
今にして思えば、これが妻と二人で一緒にショッピングに行くことができた最後の機会だった。
婦人科受診、再発の告知
11am、予約していた婦人科を受診。
何も情報がないところからドクターを探すのは難しいのですが、婦人科でも悪性腫瘍を扱っていて手術の経験も豊富なドクターということで絞り込んでいくと、ギリシア系の女医がやっているクリニックに行き当たった。
妻は、この頃にはすでに腰の痛みが耐えがたいレベルになっていて、圧力をかけているほうが楽ということで腰にサポートベルトを巻いたりもしていて、やっと病院で診てもらえるということで待ち遠しい思いだった。
しかし、この時点ではまさか腫瘍の再燃などとは思っておらず、前回の手術でなおりきっていない子宮内膜症などの影響だろうと信じきっていたのだった。
とはいえ、本来の目的は、がん治療後のフォローアップ。血液検査をして、CA 125 / CA 19-9 / AFP / LDHを計測するのが主な目的。これまでの治療の経過を英語でまとめたものを主治医に用意していただいていたので、これを事前にドクターに送っていた。
さて、アシスタントによる採血と検尿がおわったあと、ドクターが登場して痛み止めの注射をうった。実際に診察がはじまってみると、内診でグリグリと指を動かして触診していく。日本では内診のときにはプライバシーのため別室に連れて行かれて夫といえども直接目にすることはなかったのだけど、ここではお構いなし。
この内診、傍目からみていてもかなり荒っぽく、相当痛いようで、妻の顔が苦痛にゆがんでいくのがわかる。しばらくするとドクターは何かを見つけたようで、「何かある」と言いながら、ぐっと指を押し込んでいく。痛いとうったえるのもお構いなしに、とうとうドクターの腕の筋肉が盛り上がって全力で押しているのがわかる。とうとう、痛みに耐えられなくなった妻が聞いたこともないような大きな悲鳴をあげ、ドクターは「何かが破裂した」と言った。一瞬耳を疑った。
そのあと、ドクターは「右卵巣のあたりにブヨブヨした(mushy)嚢胞があって、押すと中身が出た。これでちょっと痛みは楽になったんじゃない?」と聞いてくるが、妻は激痛の余韻にふるえていて、それどころではない。なにより、もし悪性のものなら皮膜を破綻させないのが鉄則だから、とんでもないことが起きてしまったのではないかと強烈な不安を感じた。
痛み止めとして、Tramadol注射を打った。「痛み、マシになってきたでしょう?」と自信たっぷりに言うが、妻は首を横に振る。
次に、経膣エコーをもってきて撮影がはじまった。いろいろな角度から骨盤内を撮影し、画像に目印をつけていく。しかし素人には、その画像がどういう意味をもつのか、よくわからない。ひととおり撮影が終わったあと、ドクターは言った。
「結論をいうと、卵巣がんの再発だと思う。すぐに手術したほうがいいわ」
あまりのことに、絶句してしまった。徐々に落ち着いてきた妻も、今しがたドクターの言ったことを確認するように、不安そうな顔で聞いてくる。「手術したほうがいいって言ってるの?」
しかし、私たちは大きな治療は日本の主治医のもとでやると決めていて、アメリカではあくまでフォローアップの検査だけをやるつもりだった。しかも、3月にPET-CT検査までして問題なしということになっているのに、たった1ヶ月で再発と言われても、にわかには信じがたく、さらには先ほどの荒っぽい内診でドクターのミス?のようなこともあったばかりで、どう返事すればよいものか逡巡していた。
それになんとなく、すぐに大きな決断を迫るというのが、なんとなく詐欺の手口に似ている感じがするのも引っかかっていた。そこで、
「主治医は日本にいるので、すぐに彼の意見を聞いてみるから、まずは今日の診察結果をプリントしてほしい」
といった。これで、冷静な判断が下せるはずだと考えたのだ。
しかし、ドクターは私の目をまっすぐみて、語気を強めて
「何もしなければ彼女は死ぬよ」
と言い放った。
この言葉で、ガツンと頭を殴られた感じがした。この瞬間、妻がどんな表情をしていたのかは、怖くて見ることができなかった。
いずれにせよ、妻の腰痛は痛くなっていく一方なのだ。なるべく早急に何らかの処置をしてもらわなければいけないのも事実だった。
それに、手術するのにも待たされた過去の経験から、すぐに手術ができるということは、それ自体が貴重な機会であることも理解していたので、
- 日本の主治医に今日の件をすぐ連絡して指示をあおぐ
- 並行してこちらでの手術も準備を進めておく
という両面作戦でいくことにした。
明日の同じ時間にクリニックの予約を入れて帰宅。
そのあとすぐに日本の主治医に今日の診察内容を詳細にメールに書き、スキャンした診察所見とエコーの画像も添付した。
H先生
今年1月に妻の卵巣ガンの手術でお世話になったKです。その節は大変お世話になりました。3/23にアメリカに戻ってきました。
まだお礼もきちんとできておりませんでしたが、緊急のご相談です。
その後もずっと順調に過ごしていたのですが、前回の生理(3/27-31)が終わる頃から腰痛を訴えるようになり、4/8頃から痛みが強くなり、痛み止め最大用量でも効かず、どんどんひどくなっていて夜も眠れない様子でしたので、たまたま腫瘍マーカーのフォローアップで予約を入れていた婦人科に今日行ってきたところ、
・右卵巣への再発の可能性が高い(充実部あり嚢胞) ・すぐに手術したほうが良い
と言われました。
大きい病院の外科医のもとで手術の仮予約を入れてもらっており、今週の金曜日(4/17)と言われています。
ドクターの所見と経膣超音波の映像を添付してお送りします。医師はWクリニックのDr. Cです。
ドクターは、内診をしているときに「水の入ったボールのような柔らかい」嚢胞があるといい、それが破裂して内容物が出てきてしまったそうです。(卵巣破綻?)
それで、ご相談したいのは以下の点です。
・超音波画像から先生の所見はいかがでしょうか?やはり再発疑いと考えられますでしょうか?3月にPETを撮ってからこんなにも早く3cmの腫瘍ができるものでしょうか? ・もし今すぐ日本行きのフライトをとって先生に診ていただく場合、最短でいつ診察・手術を受けることが可能でしょうか? ・以上の状況から、手術は一日でも早く行ったほうが望ましいでしょうか?つまり、金曜日の手術はこちらで受けてしまって、抗がん剤など追加治療を日本に戻って行うというのは問題ないでしょうか? ・その他、何かアドバイスいただけませんでしょうか?
本当に申し訳ないと思うのですが、明々後日の手術を受けるかどうか、明日までに返事をしなければいけない状況です。どうか、第一報だけでも本日中にいただければありがたいです。
よろしくお願いいたします。
まだ日本は早朝だったので、その後、病院に電話して、確実に主治医に読んでもらえる念押しした。
その後、家族に連絡したり、バタバタしているうちに、主治医に電話がつながり、またその後メールへの返信もあった。
その内容は非常に詳細なもので、以下のようなポイントだった。
- 対側卵巣への転移再発の可能性が非常に高い
- 最大の問題点は、今回の再発のコンポーネントが類内膜腺癌なのか未熟奇形腫なのかということ
- 超音波画像はmixed patternを呈し、これだけでは確実に判断はできない、腫瘍マーカーが参考になるはず
- 対側卵巣での再発なので温存術式ではなく全部とるという判断は正しい
- 今から手術の予約を入れても5月20日頃になってしまうから、時期的な問題からそちらで手術を受けるのも一つのoptionだと思う
- その場合、開腹時の腹腔洗浄細胞診の施行、腹腔内の播種病巣のinspection所見をしっかり診てもらって下さい
- その後、こちらで化学療法、必要あればthird surgeryも根治のためには重要になる可能性があります
- また今回の腫瘍は再発ではなく、初回の治療が縮小治療のためにその際から微小に存在していた腫瘍が顕性化したものと考えます
- 抗癌剤に耐性をもって再発したのとは異なり、初回治療がunder treatmentであったためのものですので、初回治療に準じて治療計画を立てるべき
「実は再発なんかじゃない」可能性もあるかもしれないという淡い期待はあっさりと否定され、そのことには落胆したが、アメリカと日本の両方の医師に支えてもらっているという感覚は、少なからず心の支えになった。
夜、この頃には毎日湯をはって入るようにしていたお風呂に妻が入っているときに、相談した。お風呂に入っているときには、痛みも少しはマシになるようだった。
「手術、ほんとにこっちでしたほうがいいかなぁ。手術しちゃったら、しばらく動けなくなるけど」
アメリカでこんな大きな手術をするのは、そのこと自体の不安もさることながら、さんざん悩まされてきた保険のことなど、費用面でも大きな不安があった。それに、手術をしたあとしばらくは身動きがとれなくなる。色々と最悪のケースを考えていくと、なんとか我慢して日本に帰ってから手術を受けるという決断をしたほうがよい可能性は捨て切れなかった。
でも、明日には回答をしなければいけない。
妻は答えに詰まっていた。不安な気持ちは同じだけど、痛いのも早くなんとかしたい。
そういう様子をみて、ただでさえ急変した状況の重大さに押しつぶされそうな妻にこんな重い決断を押し付けるべきではない、冷静に客観的な判断ができる自分が決断し、その結果何が起きても全力でサポートするのだ、と思い直した。
なんといっても、日本では手術するのがだいぶ先になってしまう。これは、待てる期間の長さではない、と思った。
そして、アメリカで手術を受けることを第一選択にしようと決断したのだった。
妻自身による経過記録
この日、翌日の診察時に伝えたい最近の経過を書き出して、それを英語に翻訳したものを翌日に持って行ったのだった。
このときの、妻自身の言葉で書かれたメモが見つかった。以下に原文そのままペーストする。
3月23日本から帰国。
27日から生理始まる。生理痛はほとんどないが、前回よりも2、3日目の血の量が増えてる。平均量だと思うけど。
5日ほどで生理が終わり、31日ごろから腰が痛む。全体ではなく、左腰〜尻あたり。
4月8日左右全体の腰から尻、骨盤が痛み出し、横になっていても痛みがあり眠れない。睡眠4時間弱。
次の日、9日の朝一で鍼治療へ。少し緩和されたが、夜ベッドに横になると痛みが強くなってきて眠れない。横になるほうが痛み、とくに骨盤〜尻あたり。ストレッチをして、シップを貼ってソファーで眠るがほとんど眠れない。
11日ストレッチをしても痛みが緩和されないので、昼Advilを1錠を飲むが効いてない。
12日骨盤ベルトをつけてみる。朝、昼とAdviを2錠飲むが効かない。夜になって痛みが増してきた。立つ、座る、横になっても痛みがあってだんだん冷や汗が。睡眠1〜2時間弱。
13日体温36.3度。朝Advilを3錠飲む。
生理の血の量が増えているというのは、前回の手術で片方の卵巣をとった後、生理の時の血の量がかなり減っていたので、それが増えて普通に近づいてきたということだった。
夜、ベッドに横になって足を伸ばして寝ると、起きた時にしびれるような激痛が走るということだった。それで、足を伸ばさないようにソファで座った姿勢で寝ていたりしたのだった。
Advilというのは、イブプロフェンのOTC薬で、アメリカではもっとも一般的な痛み止め。用量をどんどん増やしても効かない焦りの様子が克明に記録されている。
この頃には、まさか卵巣がんの再発とは思っていないので、痛みはどこからきているのか、筋肉の緊張からきているのか、それとも術後の癒着からきているのか、内出血か、あるいは子宮内膜症か、などの可能性をいろいろと考えていた。
低容量ピルの服用を開始するのはどうか、と質問項目に記録されている。
ベルト購入
腹帯のようなもので胴回りを締めているほうが痛みがマシになる気がするということで、Sports Authorityに行ってMcDavid Waist Trimmerベルトを購入しました。
こんな感じのものでしたが、もう少ししっかりした素材のものだったような気もします。
しかし、強くなっていく痛みにはなすすべもなく。。。
Kuvings Whole Slow Juicer
がん患者の必携アイテムのひとつ、スロージューサー。
日本ではPanasonicのビタミンサーバーを使っていたのですが、どうもアメリカでは売ってない様子。いろいろと調査した結果、アメリカでは日本メーカーのみならず韓国のHuromなども扱ってないことが多く、BrevilleやOmegaなど日本では見かけないOEM製品が主流だと判明しました。
できれば通販よりはWilliams Sonomaの店舗で実物を見てから買いたかったので、その中でピンときたKuvingsのWhole Slow Juicerを選択。
リンゴ丸ごと一個は入らないけど、1/3ぐらいにカットすればどんどん入れていけるワイルドな感じが気に入りました。