ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

本庶佑氏のノーベル賞受賞に思うこと

今週、京大特別教授の本庶佑氏がノーベル賞医学生理学賞を受賞したことで世間が騒がしくなっています。

個人的にも、この受賞はとても感慨深いものでした。

このブログを見て下さっている方なら、私たちが闘病のなかでもう治療の手段がないという段階に至ったとき、抗PD-1抗体の免疫チェックポイント阻害薬であるオプジーボの存在を知り、なんとかこれに最後の希望を託そうと駆け回ったものの、小野薬品に販売を断られ、決死の思いでBMS版をスイスから個人輸入して投与したという経緯があったことをご存知かもしれません。

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これは、実際に我が家に送られてきた現物です。これを添付文書の指示どおりの温度で冷蔵保存し、投与の日に備えていました。

しかし2014年から2015年にかけての当時、オプジーボはメラノーマに承認されたばかりで、ほとんどの医師もその存在を知らず、一度は投与をOKしてくれた医師に土壇場で断られたり、このブログに書いてきたさまざまな運命に翻弄されつつ、ようやく投与することができたのは妻の亡くなる2日前でした。

あの頃は知識も経験もなく、ただ必死で、妻が0.001%でも助かる可能性に賭けたいという思いから、そして「最後まで諦めない」という妻との約束を果たすため、衰弱していく妻をみて自分の精神もすり減っていくのを感じながら、オプジーボで奇跡が起きる希望にすがっていたのでした。

当時でも、免疫チェックポイント阻害薬は抗がん剤のような即効性はなく、効いてくるまでには1-2ヶ月ほどかかることはすでに明らかになっていて、そもそも免疫が仕事をするのだから体力があるうちに投与しないと間に合わない可能性が高いことは感じていたのですが、それを認めたくない気持ちと、がんばってくれている妻のためにも、ただ必死でした。

今にして思えば、PPI (Palliative Prognostic Index) のような予後予測の基準に従えば、もう生命力を取り戻す可能性がある段階はとうに超えていて、余命がもはや週単位であったことは明白で、妻につらい思いをさせる積極的な治療はするべきではなかったと思います。今でもそのことを思い出すと胸が苦しくなります。

しかし、そのことを知っている看護師さんたちも、ドクターも、そして妻本人も、どうしても死をじっと待つことができない私の気持ちを汲んでか、全員が一体になってサポートしてくれました。婦人科領域でのオプジーボはまだ京都大学の濱西先生がリードしている第2相の臨床試験の段階で、臨床的には時期尚早なのに、忙しいなか論文を読み、学会での報告を聞きに行ってくれたドクター。妻の日々を支えてくれた医療者の皆さんには、本当に心の底から感謝の気持ちしかありません。

あまりに必死で周りが見えなくなっている私を心配して看護師のOさんに呼び出され、「奥さんの状態についてどのように受け止めていますか?」と聞かれたときのこともよく覚えています。あのときも、「これは死を受け入れる心の準備をせよ、という意味なのだろうな」と感じました。しかし、限りなく0%に近い見込みであることは自分自身で調べ尽くした結論としても十分にわかっていたのですが、頭ではわかっていても気持ちがついてこなかったのです。

「最後まで諦めない」という約束が、ある種の呪縛となって、死後のことについて妻本人とは最後まで話し合うことができませんでした。自分の死後に何をどのようにしてほしい?最期のときが近づくのを感じるにつれ、その質問が、喉元まで出かかっては飲み込みました。

私たちは10代の頃から人生の半分以上をともに過ごしてきたのだから、お互いのことは自分のこと以上によくわかっているつもりでしたが、それでももしかしたら、思いもしないような、この瞬間にしか言えないような秘めた願いがあったのかもしれない。もしかしたら私たちが知り合う以前、高校時代に付き合っていた元カレにも自分の境遇を伝えて欲しかったのではないか?などと詮無いことまで考えて、妻の死後、連絡をとろうかと真剣に悩んだりもしました。

いや、それはむしろ、妻の死を同じように悲しんでくれる仲間をとにかく手当たり次第に探したいという、自己中心的な気持ちだったのかもしれません。

しかし、慈愛にあふれた妻のことだから、何よりも心残りなのは家族のことだろう、という確信はありました。とくに義父の亡くなった2012年から一人になった義母のことを心配し、いつも実家に戻っては体の不自由な義母のかわりに大掃除をしたり家のことを手伝っていました。だから、その妻の思いやりを私が受け継いで、ときどき大阪の実家に寄っては掃除や植木の剪定などをしつつ、義母や義弟との時間をずっと大切にしています。また、そのような形で妻の生きた日々を受け継げることが、とても愛おしく、ありがたく思っています。

妻は私にとって妻であり、恋人であると同時に、変な話ですが、自分の娘のようでもあり、母のようでもあり、自分にとって大切な存在の全てを兼ねたような存在でした。京都で知り合い、東京、そしてアメリカへと、二人三脚でどこまでも大冒険してきたのです。血のつながった実の家族以上、自分の生命以上に大切に思う存在が自分の人生に登場してくるなどとは思いもしませんでしたが、自分が彼女の人生を守ってあげなければいけない、という気持ちでずっと生きてきたことで、そのような気持ちを持つようになっていました。

妻の死後、私自身の人生は色彩を失い、意味を見いだせなくなりました。

四十九日が明けてすぐに四国八十八ヶ所の遍路の旅に出発し、行く先々で同じような境遇の見知らぬ人々と語ることが癒やしになることも知りました。仏教という宗教の存在についても、人生ではじめて真剣に考えました。

あれから3年がたった現在も、いまだに心には大きな傷跡を残しており、いろいろなことがうまく回らなくなっていますが、あれからもずっとがん治療に関わる最新の研究論文をはじめ、医学にまつわる様々な論文を読み続けています。

そして生活習慣も大きく変わり、万年運動不足だった自分が週に3回はジムに通ってハードな筋トレを行うようになり、食事もまるで自分の体を実験台にするかのように健康志向のものになりました。妻と私は食いしん坊で、サンフランシスコやラスベガスにある主要なレストランはほぼ制覇したと言えるほどでしたが、そのような美食に対する欲求は封印し、今では鶏胸肉とブロッコリーを味付けなしでも毎日食べ続けることができるようになりました。

このように健康の知識を身に着け、修行僧のように実践することが、この過酷な天命に対する復讐なのか、誰よりも幸せにしたかった妻につらい思いをさせてしまったことへの懺悔なのか、行き場を失った愛の魂の叫びなのか、それは自分でもわかりませんが、あの闘病の日々が自分を変えてしまったのは確かです。

そして2017年末あたりから、Quoraというシリコンバレー発のQ&Aサイトで、主に自分が健康や医療について学んできたことを書き込みするようになりました。自分自身の闘病を支える日々で感じたこと、がん患者やその家族が陥りがちな罠、そして最新の医学研究の内容について、できるかぎり平易な言葉でわかりやすく、発信していきたいと思っています。

Kenn Ejima - Quora

そのなかには、今年こそは本庶先生がノーベル賞をとるのではないかと予測をした投稿もあります。

今年2018年のノーベル賞の日本人受賞者候補は誰だと思いますか?に対するKenn Ejimaさんの回答 - Quora

この闘病ブログを書き始めて3年たった今でもまだ2015年8月23日までの分しか完了させることができていません。残りあと2週間分なのですが、だんだん妻の死の日が近づくにつれ、日記を読み返すのがつらくなり、書くペースが落ちてきています。

しかし、この闘病ブログは私にとっての鎮魂歌であり、ライフワークのようなものなので、妻の家族・友人のためにも、今がんで闘病中の方々のためにも、そして何よりも自分自身のためにも、いつかは必ず完成させるつもりです。

ではまた、願わくば近いうちに。

「治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ」高山知朗

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

表題の本を読了。今回はそのレビューを兼ねて、約一年ぶりの投稿です。

がんを告知された患者がまず最初にとる行動といえば、病気や健康に関連する一般向けの本を読んだり、いわゆる「闘病記」カテゴリーのブログを読んだりといったことでしょう。

とくにそれまで健康だった人間は、いきなり医学用語を多用した「ムズカシイ」文献を読みこなせるわけもなく、もっとやさしい入り口を探すことになります。

多くの場合、病気のことを打ち明けて詳しく相談できるような医学の心得のある人は身近にはおらず、テレビや週刊誌で聞きかじった玉石混交の情報をあれこれインプットしてくる親族に耳を傾けたり、同じような境遇の人が書いた「闘病記」を読みふけったり、重すぎる現実を受け入れられないがために自分にとって都合の良いことが書かれている、医学的な正確性には重きを置いてない本へと流されていきます。

たとえば「食事療法だけでガンが消える」や、「ガンの放置療法」などのキャッチフレーズは、手術・抗がん剤放射線といった怖い治療を受けたくないと心のどこかで思っている患者心理にはとても魅力的に響きます。

妻の卵巣がん告知を受けたとき、私たちが最初にとった行動もそうでした。

今では自分がこんなことを口走ったことが信じられないという思いで後悔していますが、告知の翌日に集まった両家の家族に向かって私が言ったことといえば、「抗がん剤は病気を治せないただの毒だから、やらないほうがいいんじゃないか」というようなことでした。その前夜、妻自身とよく話し合った結果とはいえ、なんと無責任で浅はかな発言だったことでしょう。

正しい情報を持たない人間が、抗がん剤のイメージがもつ恐怖感に流されると、あっという間にこのような見当違いの結論を導き出してしまいます。(ヒント:病気を「根治する」ことだけが医学的介入の意義ではない、ということに、だいぶ後になってから気づきました)

でも、最初から正しい判断を下せる人間はいません。

その日から、私たちの情報戦が始まったのです。

科学的思考に慣れている私が、日本婦人科腫瘍学会の標準治療ガイドラインを(最終的には英語文献から引用されたデータの誤植を学会に指摘して修正してもらうというレベルに到達するまで)隅々まで読み込めるように、急いで医学的知識を詰め込んでいく傍らで、妻はひたすら自分と近い年齢、近い境遇の同病人が書いている闘病記ブログを探しては読んでいました。

妻にとっては、情報を集めているというよりも、病気のことを相談できる友人がいない状況のなかで、慰めを求めているという感じでした。それはそれで、ガンという孤独な病気と戦うための、心の支えとなる非常に重要な要素ではあります。

医学の下地となる知識がなかった当時の私には、ガイドラインフローチャートは頭に叩き込めても、どうしても言葉の背景にある概念まで掘り下げては理解できず、このサブタイプ診断がついたら次の選択肢はこちら、と記号として処理せざるを得ないことが多くありました。精神的な動揺を別にしても、決定的に時間が足りなかったのです。

とはいえ、治療は待ったなしで、どんどん重大な意思決定を迫られるポイントがやってきます。

最初のポイントは、手術。開腹手術か、内視鏡手術か、手術支援ロボットは使えるのか。縦に切るのか横に切るのか。限られた時間のなかで後悔しない最善の選択をするためには、まずはその目の前のポイントに集中して情報を集め、メリットとデメリットを検討し、将来の選択肢を減らさないオプションを選ぶ必要があります。正式な面会日を待たず、担当医にもどんどん質問をぶつけます。

ところが、何度もそういった意思決定のポイントを通過して知識を積み上げていくにつれ、医師が薦めてくる標準治療というのは「統計的に見て(注:つまり患者個々の事情は丸められているという点には留意したい)もっとも治療効果と忍容性のバランスが取れたオプションである」ということを追認しているだけ、という作業の繰り返しになっていることに気が付きます。

医学的に「枯れた」エビデンスがあり、なるべく医師の技量に頼らず安定的に結果の出せる治療を標準ガイドラインとして採用しているわけなので、そもそも当たり前なのですが、そんなこと駆け出しの患者は知るよしもありません。

こうして、標準治療への信頼を確立するまでが患者力の第一のステップ。

次に、標準治療に身を任せるようになると、だんだん患者として何もすることがない時間が増えてきます。そうすると、この時間を使って標準治療以上の結果を出せるよう何かやってみよう、何かせずにはいられない、と考えるようになります。

実は、真の患者力を試されるのはこの第二のステップにあると思います。

ここで、王道の医学的知識を深めたり、効果の証明されていない健康食品や特殊な治療法に飛びついたり、厳密な玄米菜食に固執するようになったり、いろいろな道がでてきます。

実は私たちも、健康食品・玄米菜食・鍼灸など、巷で言われている民間療法は色々とやってみました。これらのなかには、「何かをやっている」という自己満足が重要な要素であることも結構あります。だからこれらを一概に否定はしません。

「お金をかけすぎない」「(特に食事療法など)厳密に実行することでかえってストレスを溜めてはいけない」という点にさえ気をつけさえすれば、いろいろとやってみるのも良いと思います。

私たちの場合には当時まだ未知数の薬であった、抗PD-1抗体オプジーボをスイスから個人輸入して投与するという、1回あたり50-70万円ぐらいする薬に賭けていたので、「お金をかけすぎない」という点では説得力がありませんが、全く後悔はしていません。要するに、過剰な期待を持たず現実を冷静に踏まえて判断し、どのような結果になっても悔いを残さないということが大事なのだと思います。

悔いを残さないという意味では、標準治療を拒否しておきながら、望んだ結果が得られなかった場合の後悔というのは計り知れないものでしょう。標準治療ではなく別の道を行くというのは、「私のケースは標準治療にあてはまらない」という相当の知識に裏打ちされた確信と勇気が求められます。宝くじを買っておきながら、当たらなかったことに文句をいうようなメンタリティで選択してはいけないのです。

さて、ここまで長々と書いてきて、やはりこの高山さんの書かれた本にはかなわないなぁと改めて思いました。

この本には、がん患者の「患者力」を高めるために知っておくべき内容が、必要十分な濃さで簡潔にまとめられています。

私自身もこれまで大量のがん関連本、闘病記などを読んできましたが、本書ほど内容に偏りがなく、実践的で、変な誇張や強調もなく、感傷的な内容で埋め尽くすこともなく、また難しすぎることもないというバランスで、一方で病気の告知から寛解その後まで、それぞれの段階で心得として知っておくべき内容が患者の目線で網羅的に書かれた本にはお目にかかったことがありませんでした。

「がん告知されたばかりの患者さん」が最初に読む本として一番ふさわしい、著者の人柄のあたたかさが感じられる内容となっています。

おすすめです。

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

p.s.

当時の記録、半年あたり1ヶ月分ぐらいのペースでしか更新できてませんが、6月〜9月の分も、これから頑張って完成させます。気長にお待ち下さい。

妻を喪って

妻が亡くなってから、1ヶ月以上が経ちました。

病気の発覚から約8ヶ月の闘病の末、2015年9月6日、40歳での旅立ちでした。

本人の希望により、4月のアメリカ帰国後に再発してからのことはごく一部の人以外には伏せていたので、このブログでは3月12日のポストを最後に今日この記事を書くまで、ずっと更新が止まっていました。

このブログを読んで、あれからすっかり元気になって暮らしているものと思われていた方にとっては突然のご報告となることをお許し下さい。

私にとって妻の存在はあまりに大きく、人生の伴侶というより人生の全てでした。ともに過ごした時間は互いの生家の家族よりも長く、高校を卒業して京都の大学に通い始めてすぐの頃に出会ってからの21年間の何もかもを一緒に見、聞き、経験してきました。

これまで毎日欠かさず詳細につけてきた闘病中の日記が、いま手元に残されています。妻の後半生すべてを最後の一呼吸まで見届けた者の責務として、「怒涛の」としか表現しようのないこの半年間のできごとを、日付をさかのぼって埋めていきたいと思います。思い出すのもつらい記憶ですが、愛に満ちた濃厚な日々でもありました。

まず、これまでの経緯を整理してみます。

  • 2014年12月31日にアメリカから一時帰国(それ以前の経緯
  • 1月
    • 1月5日、初診、卵巣がん告知を受ける
    • 1月16日、入院、開腹手術にて左卵巣卵管摘出(妊孕性温存)
    • 1月27日、退院
  • 2月
    • 2月12日、「ステージ1aの類内膜腺癌グレード1+未熟奇形腫グレード1」との診断確定
  • 3月
    • 3月2日、PET-CT検査で
    • 3月5日、腫瘍マーカーもほぼ正常化したので経過観察に

ここまでが、これまでブログで公開してきた治療の経緯でした。

このあと、以下のようなことが起きました。以下の内容を、過去の日付に遡って詳細にブログに書いていく予定です。

  • 3月23日、アメリカへ帰国
  • 保険会社から日本滞在中に一方的に契約をキャンセルされていたので、猛烈に抗議して再契約、すぐに定期健診のため婦人科クリニックを探し、4月14日に予約を入れる
  • 4月に入ってから腰痛をうったえはじめる
  • 4月9日、鍼治療に行ってみるも改善せず、日ごとに痛みが強くなっていき我慢できないレベルに
  • 4月14日、婦人科クリニックで卵巣がん再発を告知され、アメリカで緊急手術を受けることに
  • 4月16日、入院中のヘルプのため母に航空券を手配し、飛んできてもらう
  • 4月17日、入院、右卵巣卵管・子宮・骨盤内リンパ節を切除するが、大動脈を巻き込んだ大きな腫瘍がとりきれなかったと言われる
    • このあとは化学療法で対処するしかないが、病理診断が確定しないと治療方針も決まらない
    • 執刀医の印象では、これは卵巣がんではなく、おそらく悪性リンパ腫ではないかとのことで、正確な病理検査のため、日本の主治医から1月に手術したときの切除標本の現物を至急送って欲しいと言われる
  • 術後2-3日の経過は悪くなく、腰の痛みの原因となっていた部分の摘出には成功したのかと思われた
  • しかし4月21日、退院予定日の早朝になって、妻がうめき声をあげて痛みを訴え始め、退院は不可能と判断される

ここから担当が婦人科の執刀医から腫瘍内科医に変更となり、ケースマネージャもアサインされ、医療用麻薬をどんどん増量していきながら、なかなか出てこない病理診断の結果を待つ日々がはじまりました。

日本から飛んできてくれた母には、自宅で飼っている犬の世話をしてもらいつつ、病院で食べる2人分の弁当を作ってもらったり、日本への本帰国に向けて荷物の片付けを進めてもらったりしていました。母はアメリカで車の運転をするのが怖いので、ラスベガス在住の日本人の友人たちに助けてもらって、買い出しに連れて行ってもらっていました。

私は、入院初日から寝袋で病室に寝泊まりしながら、病室と自宅をビデオチャットでつなぎっぱなしにして、いつでも声をかければ相手に届くようにしていました。(この病院はWiFiを無料で提供してくれていました)

いずれにせよ長期間の化学療法が必要となるのは確実なので、4月24日には胸から点滴できるようにCVポート埋め込み手術も行いました。

そして4月27日、日本から届いた原発巣の病理標本をみたところ奇形腫から高悪性度の肉腫が発生していて、もしこれが転移したのならあと1年もたないだろうと言われました。また、かなり特殊な事例のため、確実な診断を行うため州外の専門機関に病理標本を送ってセカンドオピニオンに出しているので、結果が出るまでにさらに時間がかかると言われました。これを聞いたとき、強烈なショックを受けると同時に、どんなことがあっても妻を日本に連れて帰ると決意したのでした。

しかしタイミング悪く、29日から日本はゴールデンウィークに突入、いまから予約を入れても主治医のいる病棟へ入院できるのは最短で5月11日と言われました。

アメリカで暮らし始めて10年、深く根を下ろしてきて、ラスベガスの住居は借家ではなく2年前に購入した持ち家でした。病院で寝泊まりする付き添い生活をしながら、空いた時間で引越し業者の手配からパッキング、不要品の処分・寄付、大掃除、賃貸で貸すための準備、これから請求されるであろう巨額の医療費に備えてお金を借りる手続き、犬を連れてかえるための検疫の準備などを同時並行で進めていきました。その間、トラブルも多々ありながら、母や友人たちのヘルプもあって、何もかもが一日の猶予もないギリギリの状態で進行していき、最終的には5月4日に退院し、なんとか5月7日の早朝便でラスベガスの我が家をあとにして日本へと発つことができたのでした。

そのあとは、なんとか週末を耐えぬき(このとき、本人は気づいてませんでしたが左鎖骨上部リンパ節が大きく腫れていて、こんなところまで転移しているのかと恐怖を感じました)、5月11日の月曜日に予定通り入院することができました。

ちなみに、病理標本を送った州外の専門機関というのは全米有数の医学専門大学院大学であるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)だったのですが、この時点でまだ病理検査の結果は出ていませんでした。

以下、続きます。

  • 5月11日、入院、アメリカでの病理検査の結果を待ちつつ、痛みのコントロール開始
  • 5月15日、造影CT撮影
  • 5月16日、やっとUCSFから病理の結果が届き、極めて稀な「横紋筋肉腫」との診断
    • またCTの結果、骨盤部に巨大な腫瘍があり、加えて肝臓や肺に多発転移していることがわかる
  • 5月18日、腫瘍に圧迫されて尿路が閉塞しないよう、尿管ステントを留置
  • 5月20日、横紋筋肉腫をターゲットとしたVAC療法1コース目を開始
  • 5月28日、一時退院に向けたリハビリ開始
  • 6月10日、VAC療法2コース目
  • 6月25日、40歳の誕生日を迎え、初の外出
  • 6月27日、二度目の外出、ランチへ
  • 6月28日、幼なじみの友人たちのお見舞い、この頃が一番調子が良かった
  • 7月1日、VAC療法3コース目、ここから体調が下り坂に
  • 7月7日、精神科の回診開始
  • 7月16日、神経内科の診察
  • 7月21日、造影CT撮影、思わしくない結果に泣き出してしまう
  • 7月22日、VAC療法4コース目
  • 7月28日、国立がん研究センターセカンドオピニオン
  • 7月29日、自費診療による抗PD-1抗体オプジーボ(一般名:ニボルマブ)投与の準備開始
  • 7月30日、1ヶ月ぶりに車椅子を出して病室の外へ、シャワーも浴びる
  • 8月1日、右太腿の痛みを訴え始める
  • 8月7日、右膝の感覚がなくなる
  • 8月13日、花火大会を病室から鑑賞
  • 8月17日、VAC療法5コース目
  • 8月28日、スイスからオプジーボが届く
  • 8月31日、持続硬膜外ブロックを導入
  • 9月1日、分子標的薬ヴォトリエント(一般名:パゾパニブ)服用開始
  • 9月2日、オプジーボ投与
  • 9月4日、何も飲めなくなる
  • 9月5日、体温・血圧低下、下顎呼吸、せん妄あり
  • 9月6日、2:30am、呼吸停止

以上のような経過をたどっていきました。

私はこの間ずっと病室のソファで寝泊まりしながら妻のそばで24時間を一緒に過ごす付き添い生活を続けていました。というのも、妻と私は、このいつ終わるともわからない入院生活を「ただ苦痛を耐え忍ぶだけの闘病の日々」ではなく「楽しいことやつらいことがある、いつもの日常生活の一部」としてとらえ、一日一日を大切にすることにしていたからです。

病室から出られない妻のために、モバイルルータでネット環境を構築して動画ストリーミングサービスを使って映画やアニメを一緒に観たり、私が外出するときにはiPhoneビデオチャット機能であるFaceTimeを使って外の風景を中継して、まるで一緒に出かけている気分でいられるような工夫もしました。

医師や看護師など医療従事者は、主として患者に苦痛が発生しているときにナースコールで呼び出されるので、入院患者は一日中苦しんでいるような印象を抱きがちかもしれません。しかし、1日24時間あれば、ぼーっとしてたり、不機嫌になったり、大笑いしたり、真剣に考え事をしたり、そしてちょっぴりほっこりする瞬間があったりするのです。ずっと患者と一緒に寄り添う立場になってみると、そういう別の真実が見えてくることがあります。

そして、そんな「まるで普段どおりの姿」を見ているからこそ、もう終わりが近いなんて信じられず、最後の最後まで不合理な希望を捨てきれず、あきらめきれないのだろうとも思います。

私はこれから、妻と過ごしたこの8ヶ月の、圧倒的な質量をもった感情の波に揺り動かされ続けた「日常」を詳細に書きつけていくことで、「妻のいなくなった世界」との向き合い方についての答えを探そうとしているのかもしれません。

もしかしたら、こんな詳細な記録を書き綴ったところで、そんなものを必要としているのは自分だけかも知れません。しかし、自分のためにこそ、この時期に起きたこと・感じたことを残しておきたいと思うのです。

千葉からオプジーボが届く

5am前に目が覚める。

妻はほとんど眠れていないようだ。

起きてすぐ、介護情報サイトで除圧方法について勉強。

突然、「Kちゃん、怖い、怖い、生きられへん、生きられへん」といいはじめ、呼吸が荒くなり、目線が遠くを見たまま戻ってこなくなる。眼の焦点があわないで、何か幻覚を観ているように目があちこちへ泳ぐ。こちらも気が動転、怖くなる。

何度も何度も除圧・体位変換をする。

NHKオンデマンドニボルマブの回をMac上で録画しようとするが、なかなかうまくいかない。

ベッド脇にすわれるスチール椅子を出してもらい、できる限り妻の手を握っておく。

9am、駅まで行ってレンタサイクルの更新。車両番号が、来年につながる2016から元気だったサンフランシスコ時代を思い出す2010へと変更。

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帰りに売店で前開きの下着Lサイズを買って帰る。

N先生に連絡して、オキファストの持続を1.4から1.6へ増量。睡眠がとれてないのでロヒプノールを復活して欲しかったのだが、やはり呼吸抑制が怖いからということで、リリカなら出せるのだがと言われる。結局、セロクエルの増量で落ち着く。硬膜外ブロックは明日実行する方向で、血液の凝固系の検査が追加に。

H先生への連絡で、補液のInとOutのバランスで、それなりに尿量もあるので、今日は利尿剤なしで行くことに。

妻が一緒にいて欲しいというので、ベッド上に無理やり乗って添い寝し、一緒に少しうとうとする。

すると、母からオプジーボが届いたとメッセージが入る。写真を送ってもらってドイツ語で書かれた箱を確認し、冷蔵庫に保管してもらう。

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その後も、心臓の鼓動がドクドクするとO先生にうったえると、むしろ脈数は120から100近くまで下がっているという。妻が「落ち着くまで手を握ってていい?」というので、しばらくベッド脇で手を握って目を見つめていると、ようやく呼吸が落ち着く。途中、目が遠くを見て呼吸が止まってヒヤリとするが、声をかけて呼び戻す一幕も。念のため、鼻カヌラで1L供給することに。

夕方から父と介護タクシーの下見に。

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分刻みで終わりのない介護

朝、起きて目が合ったときの一言目が「苦しい。」

先生も不在で、何かあっても対処してもらえない週末が始まった。いつも週末を乗り越えるのが課題だ。

足やお腹をさすって、スキンシップのある介護をして、なるべく気を紛らわせるようにするのが精一杯だ。

ひとりでの朝食、コーヒーを買ってきて、母の焼いたパンを、ココナッツオイルの香りが気持ち悪くなるというので談話室にもっていき、ヨーグルトとグラノラも一緒に食べる。

体温も血圧も正常。

朝の日課である、イソジンでのうがいと歯磨き。もう体を起こせないので、ベッドを45度ぐらいに起こしてなんとかうがい受けをつかって水を口に含む。何度も口からこぼすのをひたすら拭く。

9am、妻のリクエストで、オキファスト持続を1.2から1.4へ増量。N先生は今日病院にきているようだ。

10am、O先生の回診で、高カロリー輸液を止めたあとの補液について説明。NaClが減っているのでソルデム3号+NaCl 2g/20mLに。

N先生が回診にきて、少しだけ話をする。やはりドクターと話ができると妻の気持ちが落ち着くようだ。

その後、背中にポコポコ空気が動くような音がするといい、O先生を呼んで欲しいという。先生は、これはおそらく腸が動いてるのであろうこと、また本当に腹腔に空気が漏れてたら大変なことで、感染で高熱が出たり、緊急手術になったりするので、そういうことではないだろうと説明。だんだんO先生が頼もしい存在に思えてくる。

水を飲ませたり、リップクリームを買ってきたり、分刻みで休みなく介護をしていると、「今日この部屋におってくれる?おらんようなると寂しい。この部屋寒い?談話室にいたほうがいい?」「大丈夫、ここにおるよ」という会話に。ベッドに無理やり半身をのせ、体をくっつけて頭を撫でていると、安心して寝息が聞こえてくる。

午後、千葉のI先生から返信があり、オプジーボは明日の午後に届くだろうとのこと。

母が弁当をもってきてくれたが、今日は特に暑くもなかったし、風呂には行かないことに。

自宅前のソーラーパネル設置は進んでいるようだ。

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何度も何度も「背抜き、尻抜き、かかと抜き」で除圧する。背抜き介助用グローブを使って、病衣やシーツのシワを伸ばし、体圧を抜く。体の向きを変え、たくさんの三角枕を差し込む。

夕食は、談話室で。

思い出したように、Huluで「坂道のアポロン」を再見する。

エアマット式のベッドに

5am、起きてみると、千葉のI先生からメールの返信が届いてる。

iRxMedicineで個人輸入することにしたが、届くのに時間がかかるので、在庫している分を譲ってもらえないかという件について相談していたメールに対する返信で、初回投与分を譲ってもらえるということで、すぐに送金する。

妻の友人から入浴剤が送られてきたが、もう使える状態ではない。

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このところ寝たきり状態になっていることもあって、ベッドを変えてもらうことを検討する。以前に看護師長が言っていた、最新のベッドは来週水曜まで届かないようなので、とりあえずそれまでのつなぎとして、エアマット式のものに変えてもらう。これで、おしりのところの圧が60以上あったのが、30以下にまで落ちた。本人としても、頻繁に体の向きを変えてくれと言わなくなり、少し楽になったようだ。

一週間ほど排便がないので、昼から浣腸をすることに。結局、一度だけ少し出たが、やはりほとんど食べてないのでそれ以上は出なかった。

夕方になると、このお腹の張りをN先生に何とかして欲しい、という。

5pm過ぎ、N先生がきて、硬膜外ブロックとくも膜下ブロックについての説明を受ける。ただ、レントゲン透視しながらの小手術になるのでこの病室ではできないので、来週月曜日以降になる。

湯楽温泉へ行き、戻ってきて、夕食のにおいがしないよう、談話室で食べる。

夜になると、ここ2-3日でどんどん強くなってきたお腹の張りで、肋骨も痛いと言い出す。触ってみると、たしかにお腹の肋骨のあたりがカチカチに硬くなって張り出していて、今にも骨折しそうに思えた。

妻と話していると、とくに週末、何もできないで腫瘍の成長をただ見守るだけというのが耐えられないので、栄養失調になっても高カロリー輸液を止めたいという。

ナースTさんにお願いして、H先生に相談してもらい、高カロリー輸液をとめて、電解質輸液だけに切り替える。これで、栄養状態は悪くなるが、がん細胞の成長も少しは遅くなるはずだと思いたい。

高カロリー輸液で尿量増加

6am、採血。

また尿意を感じるというので、尿バッグをみると、ほとんど溜まってない。

ナースGさんにお願いして、尿とりパッドを取り替えてもらうと、やはりそちらに多く吸収されている。

導尿チューブを太いものに交換してもらう。しかし、どうしても腹部の膨らみと脚のむくみで高圧のため、漏れてしまう可能性はあるという。どうやっても漏れてしまうなら、最初から尿パッドに吸わせて導尿チューブをとったほうが良いかとも思うので、様子見。

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H先生の回診で、本日の採血の結果はさほど悪くないとの知らせ。利尿剤を使えば尿が出てくるので腎臓機能は悪くないが、高カロリー輸液で一日に大量の水分が入るので、これを出すために続けて利尿剤を出してもらうことに。また、ヴォトリエント(パゾパニブ)がいつ使えるのか聞くと、抗がん剤をやめればすぐにでも使えるが、今日LDHが1000を超えていて、これが腫瘍の成長によるものか、治療効果によるものかの見極めが必要なので、その経過を見てから判断することに。また、ニボルマブの投与スケジュールについても少し触れる。

デキサート3.3mgは今日まで。

ベッドで体を起こしにくくなってきたので、水のペットボトルに入れたままにしておけるストローを買ってくる。これで、ベッドが45度未満でも何とか水を飲めるように。

夜はフルカリック1号にラシックス10mg混注。

尿量はトータル700mL強。