ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

「治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ」高山知朗

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

表題の本を読了。今回はそのレビューを兼ねて、約一年ぶりの投稿です。

がんを告知された患者がまず最初にとる行動といえば、病気や健康に関連する一般向けの本を読んだり、いわゆる「闘病記」カテゴリーのブログを読んだりといったことでしょう。

とくにそれまで健康だった人間は、いきなり医学用語を多用した「ムズカシイ」文献を読みこなせるわけもなく、もっとやさしい入り口を探すことになります。

多くの場合、病気のことを打ち明けて詳しく相談できるような医学の心得のある人は身近にはおらず、テレビや週刊誌で聞きかじった玉石混交の情報をあれこれインプットしてくる親族に耳を傾けたり、同じような境遇の人が書いた「闘病記」を読みふけったり、重すぎる現実を受け入れられないがために自分にとって都合の良いことが書かれている、医学的な正確性には重きを置いてない本へと流されていきます。

たとえば「食事療法だけでガンが消える」や、「ガンの放置療法」などのキャッチフレーズは、手術・抗がん剤放射線といった怖い治療を受けたくないと心のどこかで思っている患者心理にはとても魅力的に響きます。

妻の卵巣がん告知を受けたとき、私たちが最初にとった行動もそうでした。

今では自分がこんなことを口走ったことが信じられないという思いで後悔していますが、告知の翌日に集まった両家の家族に向かって私が言ったことといえば、「抗がん剤は病気を治せないただの毒だから、やらないほうがいいんじゃないか」というようなことでした。その前夜、妻自身とよく話し合った結果とはいえ、なんと無責任で浅はかな発言だったことでしょう。

正しい情報を持たない人間が、抗がん剤のイメージがもつ恐怖感に流されると、あっという間にこのような見当違いの結論を導き出してしまいます。(ヒント:病気を「根治する」ことだけが医学的介入の意義ではない、ということに、だいぶ後になってから気づきました)

でも、最初から正しい判断を下せる人間はいません。

その日から、私たちの情報戦が始まったのです。

科学的思考に慣れている私が、日本婦人科腫瘍学会の標準治療ガイドラインを(最終的には英語文献から引用されたデータの誤植を学会に指摘して修正してもらうというレベルに到達するまで)隅々まで読み込めるように、急いで医学的知識を詰め込んでいく傍らで、妻はひたすら自分と近い年齢、近い境遇の同病人が書いている闘病記ブログを探しては読んでいました。

妻にとっては、情報を集めているというよりも、病気のことを相談できる友人がいない状況のなかで、慰めを求めているという感じでした。それはそれで、ガンという孤独な病気と戦うための、心の支えとなる非常に重要な要素ではあります。

医学の下地となる知識がなかった当時の私には、ガイドラインフローチャートは頭に叩き込めても、どうしても言葉の背景にある概念まで掘り下げては理解できず、このサブタイプ診断がついたら次の選択肢はこちら、と記号として処理せざるを得ないことが多くありました。精神的な動揺を別にしても、決定的に時間が足りなかったのです。

とはいえ、治療は待ったなしで、どんどん重大な意思決定を迫られるポイントがやってきます。

最初のポイントは、手術。開腹手術か、内視鏡手術か、手術支援ロボットは使えるのか。縦に切るのか横に切るのか。限られた時間のなかで後悔しない最善の選択をするためには、まずはその目の前のポイントに集中して情報を集め、メリットとデメリットを検討し、将来の選択肢を減らさないオプションを選ぶ必要があります。正式な面会日を待たず、担当医にもどんどん質問をぶつけます。

ところが、何度もそういった意思決定のポイントを通過して知識を積み上げていくにつれ、医師が薦めてくる標準治療というのは「統計的に見て(注:つまり患者個々の事情は丸められているという点には留意したい)もっとも治療効果と忍容性のバランスが取れたオプションである」ということを追認しているだけ、という作業の繰り返しになっていることに気が付きます。

医学的に「枯れた」エビデンスがあり、なるべく医師の技量に頼らず安定的に結果の出せる治療を標準ガイドラインとして採用しているわけなので、そもそも当たり前なのですが、そんなこと駆け出しの患者は知るよしもありません。

こうして、標準治療への信頼を確立するまでが患者力の第一のステップ。

次に、標準治療に身を任せるようになると、だんだん患者として何もすることがない時間が増えてきます。そうすると、この時間を使って標準治療以上の結果を出せるよう何かやってみよう、何かせずにはいられない、と考えるようになります。

実は、真の患者力を試されるのはこの第二のステップにあると思います。

ここで、王道の医学的知識を深めたり、効果の証明されていない健康食品や特殊な治療法に飛びついたり、厳密な玄米菜食に固執するようになったり、いろいろな道がでてきます。

実は私たちも、健康食品・玄米菜食・鍼灸など、巷で言われている民間療法は色々とやってみました。これらのなかには、「何かをやっている」という自己満足が重要な要素であることも結構あります。だからこれらを一概に否定はしません。

「お金をかけすぎない」「(特に食事療法など)厳密に実行することでかえってストレスを溜めてはいけない」という点にさえ気をつけさえすれば、いろいろとやってみるのも良いと思います。

私たちの場合には当時まだ未知数の薬であった、抗PD-1抗体オプジーボをスイスから個人輸入して投与するという、1回あたり50-70万円ぐらいする薬に賭けていたので、「お金をかけすぎない」という点では説得力がありませんが、全く後悔はしていません。要するに、過剰な期待を持たず現実を冷静に踏まえて判断し、どのような結果になっても悔いを残さないということが大事なのだと思います。

悔いを残さないという意味では、標準治療を拒否しておきながら、望んだ結果が得られなかった場合の後悔というのは計り知れないものでしょう。標準治療ではなく別の道を行くというのは、「私のケースは標準治療にあてはまらない」という相当の知識に裏打ちされた確信と勇気が求められます。宝くじを買っておきながら、当たらなかったことに文句をいうようなメンタリティで選択してはいけないのです。

さて、ここまで長々と書いてきて、やはりこの高山さんの書かれた本にはかなわないなぁと改めて思いました。

この本には、がん患者の「患者力」を高めるために知っておくべき内容が、必要十分な濃さで簡潔にまとめられています。

私自身もこれまで大量のがん関連本、闘病記などを読んできましたが、本書ほど内容に偏りがなく、実践的で、変な誇張や強調もなく、感傷的な内容で埋め尽くすこともなく、また難しすぎることもないというバランスで、一方で病気の告知から寛解その後まで、それぞれの段階で心得として知っておくべき内容が患者の目線で網羅的に書かれた本にはお目にかかったことがありませんでした。

「がん告知されたばかりの患者さん」が最初に読む本として一番ふさわしい、著者の人柄のあたたかさが感じられる内容となっています。

おすすめです。

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

p.s.

当時の記録、半年あたり1ヶ月分ぐらいのペースでしか更新できてませんが、6月〜9月の分も、これから頑張って完成させます。気長にお待ち下さい。

妻を喪って

妻が亡くなってから、1ヶ月以上が経ちました。

病気の発覚から約8ヶ月の闘病の末、2015年9月6日、40歳での旅立ちでした。

本人の希望により、4月のアメリカ帰国後に再発してからのことはごく一部の人以外には伏せていたので、このブログでは3月12日のポストを最後に今日この記事を書くまで、ずっと更新が止まっていました。

このブログを読んで、あれからすっかり元気になって暮らしているものと思われていた方にとっては突然のご報告となることをお許し下さい。

私にとって妻の存在はあまりに大きく、人生の伴侶というより人生の全てでした。ともに過ごした時間は互いの生家の家族よりも長く、高校を卒業して京都の大学に通い始めてすぐの頃に出会ってからの21年間の何もかもを一緒に見、聞き、経験してきました。

これまで毎日欠かさず詳細につけてきた闘病中の日記が、いま手元に残されています。妻の後半生すべてを最後の一呼吸まで見届けた者の責務として、「怒涛の」としか表現しようのないこの半年間のできごとを、日付をさかのぼって埋めていきたいと思います。思い出すのもつらい記憶ですが、愛に満ちた濃厚な日々でもありました。

まず、これまでの経緯を整理してみます。

  • 2014年12月31日にアメリカから一時帰国(それ以前の経緯
  • 1月
    • 1月5日、初診、卵巣がん告知を受ける
    • 1月16日、入院、開腹手術にて左卵巣卵管摘出(妊孕性温存)
    • 1月27日、退院
  • 2月
    • 2月12日、「ステージ1aの類内膜腺癌グレード1+未熟奇形腫グレード1」との診断確定
  • 3月
    • 3月2日、PET-CT検査で
    • 3月5日、腫瘍マーカーもほぼ正常化したので経過観察に

ここまでが、これまでブログで公開してきた治療の経緯でした。

このあと、以下のようなことが起きました。以下の内容を、過去の日付に遡って詳細にブログに書いていく予定です。

  • 3月23日、アメリカへ帰国
  • 保険会社から日本滞在中に一方的に契約をキャンセルされていたので、猛烈に抗議して再契約、すぐに定期健診のため婦人科クリニックを探し、4月14日に予約を入れる
  • 4月に入ってから腰痛をうったえはじめる
  • 4月9日、鍼治療に行ってみるも改善せず、日ごとに痛みが強くなっていき我慢できないレベルに
  • 4月14日、婦人科クリニックで卵巣がん再発を告知され、アメリカで緊急手術を受けることに
  • 4月16日、入院中のヘルプのため母に航空券を手配し、飛んできてもらう
  • 4月17日、入院、右卵巣卵管・子宮・骨盤内リンパ節を切除するが、大動脈を巻き込んだ大きな腫瘍がとりきれなかったと言われる
    • このあとは化学療法で対処するしかないが、病理診断が確定しないと治療方針も決まらない
    • 執刀医の印象では、これは卵巣がんではなく、おそらく悪性リンパ腫ではないかとのことで、正確な病理検査のため、日本の主治医から1月に手術したときの切除標本の現物を至急送って欲しいと言われる
  • 術後2-3日の経過は悪くなく、腰の痛みの原因となっていた部分の摘出には成功したのかと思われた
  • しかし4月21日、退院予定日の早朝になって、妻がうめき声をあげて痛みを訴え始め、退院は不可能と判断される

ここから担当が婦人科の執刀医から腫瘍内科医に変更となり、ケースマネージャもアサインされ、医療用麻薬をどんどん増量していきながら、なかなか出てこない病理診断の結果を待つ日々がはじまりました。

日本から飛んできてくれた母には、自宅で飼っている犬の世話をしてもらいつつ、病院で食べる2人分の弁当を作ってもらったり、日本への本帰国に向けて荷物の片付けを進めてもらったりしていました。母はアメリカで車の運転をするのが怖いので、ラスベガス在住の日本人の友人たちに助けてもらって、買い出しに連れて行ってもらっていました。

私は、入院初日から寝袋で病室に寝泊まりしながら、病室と自宅をビデオチャットでつなぎっぱなしにして、いつでも声をかければ相手に届くようにしていました。(この病院はWiFiを無料で提供してくれていました)

いずれにせよ長期間の化学療法が必要となるのは確実なので、4月24日には胸から点滴できるようにCVポート埋め込み手術も行いました。

そして4月27日、日本から届いた原発巣の病理標本をみたところ奇形腫から高悪性度の肉腫が発生していて、もしこれが転移したのならあと1年もたないだろうと言われました。また、かなり特殊な事例のため、確実な診断を行うため州外の専門機関に病理標本を送ってセカンドオピニオンに出しているので、結果が出るまでにさらに時間がかかると言われました。これを聞いたとき、強烈なショックを受けると同時に、どんなことがあっても妻を日本に連れて帰ると決意したのでした。

しかしタイミング悪く、29日から日本はゴールデンウィークに突入、いまから予約を入れても主治医のいる病棟へ入院できるのは最短で5月11日と言われました。

アメリカで暮らし始めて10年、深く根を下ろしてきて、ラスベガスの住居は借家ではなく2年前に購入した持ち家でした。病院で寝泊まりする付き添い生活をしながら、空いた時間で引越し業者の手配からパッキング、不要品の処分・寄付、大掃除、賃貸で貸すための準備、これから請求されるであろう巨額の医療費に備えてお金を借りる手続き、犬を連れてかえるための検疫の準備などを同時並行で進めていきました。その間、トラブルも多々ありながら、母や友人たちのヘルプもあって、何もかもが一日の猶予もないギリギリの状態で進行していき、最終的には5月4日に退院し、なんとか5月7日の早朝便でラスベガスの我が家をあとにして日本へと発つことができたのでした。

そのあとは、なんとか週末を耐えぬき(このとき、本人は気づいてませんでしたが左鎖骨上部リンパ節が大きく腫れていて、こんなところまで転移しているのかと恐怖を感じました)、5月11日の月曜日に予定通り入院することができました。

ちなみに、病理標本を送った州外の専門機関というのは全米有数の医学専門大学院大学であるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)だったのですが、この時点でまだ病理検査の結果は出ていませんでした。

以下、続きます。

  • 5月11日、入院、アメリカでの病理検査の結果を待ちつつ、痛みのコントロール開始
  • 5月15日、造影CT撮影
  • 5月16日、やっとUCSFから病理の結果が届き、極めて稀な「横紋筋肉腫」との診断
    • またCTの結果、骨盤部に巨大な腫瘍があり、加えて肝臓や肺に多発転移していることがわかる
  • 5月18日、腫瘍に圧迫されて尿路が閉塞しないよう、尿管ステントを留置
  • 5月20日、横紋筋肉腫をターゲットとしたVAC療法1コース目を開始
  • 5月28日、一時退院に向けたリハビリ開始
  • 6月10日、VAC療法2コース目
  • 6月25日、40歳の誕生日を迎え、初の外出
  • 6月27日、二度目の外出、ランチへ
  • 6月28日、幼なじみの友人たちのお見舞い、この頃が一番調子が良かった
  • 7月1日、VAC療法3コース目、ここから体調が下り坂に
  • 7月7日、精神科の回診開始
  • 7月16日、神経内科の診察
  • 7月21日、造影CT撮影、思わしくない結果に泣き出してしまう
  • 7月22日、VAC療法4コース目
  • 7月28日、国立がん研究センターセカンドオピニオン
  • 7月29日、自費診療による抗PD-1抗体オプジーボ(一般名:ニボルマブ)投与の準備開始
  • 7月30日、1ヶ月ぶりに車椅子を出して病室の外へ、シャワーも浴びる
  • 8月1日、右太腿の痛みを訴え始める
  • 8月7日、右膝の感覚がなくなる
  • 8月13日、花火大会を病室から鑑賞
  • 8月17日、VAC療法5コース目
  • 8月28日、スイスからオプジーボが届く
  • 8月31日、持続硬膜外ブロックを導入
  • 9月1日、分子標的薬ヴォトリエント(一般名:パゾパニブ)服用開始
  • 9月2日、オプジーボ投与
  • 9月4日、何も飲めなくなる
  • 9月5日、体温・血圧低下、下顎呼吸、せん妄あり
  • 9月6日、2:30am、呼吸停止

以上のような経過をたどっていきました。

私はこの間ずっと病室のソファで寝泊まりしながら妻のそばで24時間を一緒に過ごす付き添い生活を続けていました。というのも、妻と私は、このいつ終わるともわからない入院生活を「ただ苦痛を耐え忍ぶだけの闘病の日々」ではなく「楽しいことやつらいことがある、いつもの日常生活の一部」としてとらえ、一日一日を大切にすることにしていたからです。

病室から出られない妻のために、モバイルルータでネット環境を構築して動画ストリーミングサービスを使って映画やアニメを一緒に観たり、私が外出するときにはiPhoneビデオチャット機能であるFaceTimeを使って外の風景を中継して、まるで一緒に出かけている気分でいられるような工夫もしました。

医師や看護師など医療従事者は、主として患者に苦痛が発生しているときにナースコールで呼び出されるので、入院患者は一日中苦しんでいるような印象を抱きがちかもしれません。しかし、1日24時間あれば、ぼーっとしてたり、不機嫌になったり、大笑いしたり、真剣に考え事をしたり、そしてちょっぴりほっこりする瞬間があったりするのです。ずっと患者と一緒に寄り添う立場になってみると、そういう別の真実が見えてくることがあります。

そして、そんな「まるで普段どおりの姿」を見ているからこそ、もう終わりが近いなんて信じられず、最後の最後まで不合理な希望を捨てきれず、あきらめきれないのだろうとも思います。

私はこれから、妻と過ごしたこの8ヶ月の、圧倒的な質量をもった感情の波に揺り動かされ続けた「日常」を詳細に書きつけていくことで、「妻のいなくなった世界」との向き合い方についての答えを探そうとしているのかもしれません。

もしかしたら、こんな詳細な記録を書き綴ったところで、そんなものを必要としているのは自分だけかも知れません。しかし、自分のためにこそ、この時期に起きたこと・感じたことを残しておきたいと思うのです。

恩師のお見舞い

妻の体温はようやく36.6度に下がった。

しかし、私の方の体調が微妙に思わしくない。おそらく最近は冷房をつけたまま寝ているからだろう。UPXのマルチビタミンとキューピーコーワゴールドを服用。

朝食はたまごサンドイッチ1/4、かぼちゃのスープ、カロリーメイト缶半分、メロンパン半分。メコバラミンとウルソも継続中。

ひょうたん型風船でリハビリ10分。

昼まで談話室で仕事しているうちに、また排便があったらしい。これで二日連続の自然排便。固くて小さめの便が二個。けっこう気張ったようだ。

昼食は小さなおうどん、バニラもなか、カロリーメイト缶の残り、ひがさのとんかつ一切れ。

その後、リハビリの歩行器を使って立ち上がり静止1分を7セット。やはり立っているだけでかなり疲れるが、少しづつ長く立っていられるように。

2pm前、アメリカから来日中の恩師が見舞いに病室まできてくれた。

恩師は、2005年にカリフォルニアへ渡ったときに現地でお世話になった方で、ひとかたならぬご縁があった。一回り年上だが、子供がいないご夫婦で犬を飼っているという共通点もあってか、よく一緒にお食事に連れ出していただいたり、Los Altosにある豪邸にお呼ばれしたりしていた。

ところが、ちょうど東日本大震災のころ、恩師の奥様が亡くなられた。あまりに突然のことで、ショック状態に陥っていた恩師は20年を過ごしたアメリカを離れて家族に連れられて日本に帰国し、心のケアを受けられていた。そうするにあたって、アメリカに残していく犬の世話をどうするかが最大の問題だったのだが(アメリカから日本に犬を連れて行くのは半年前からの準備が必要である)、サンフランシスコに住んでいるけれどもリモートで働いていて、どこでも暮らせる私たち夫婦が愛犬を連れてその豪邸に住み込んで恩師の犬の世話をすることになった。

恩師の犬はもうかなりの老齢で、老い先は短いとわかっていたので、自分の力で裏庭にでてトイレができなくなったら安楽死させようと夫婦で決めていた、かかりつけの動物病院はここ、このぐらいの頻度でドッグフードとリンゴをあげて、一日にこれぐらいの頻度でトイレに出して、などと、私達がいざというときの判断に困らないような情報はひととおり提供してもらっていた。毎週この曜日のこの時間には庭師がくるとか、この日はメイドサービスが掃除にくるとか、この日にゴミを出すとか、お金のかかることはこの代理人にとか、そういったことも含めてだ。

地元の共通の友人たちとも協力しあいながら、3月から4月にかけてのポカポカとおだやかな日々を、わたしたち夫婦と愛犬はその豪邸で暮らした。恩師は、こんなことをお願いするというので大いに恩義を感じてくださっていたようだが、わたしたちからすれば、何の負担もなかった。恩師の犬は大型犬だがやさしい性格なのでうちの犬嫌いの愛犬とも適度な距離をおいてくれるし、トイレは自分で庭に出てするし、ほとんど手がかからなかった。

何より、妻は東京ではペットショップで働いていたぐらい犬の世話が好きなので、我が子が二人になったかのようで、むしろ喜んでいたように思う。

こうして、いつ終わるともしれない仮住まいでの生活が始まったのだが、終わりは思ったよりも早くおとずれた。

恩師の犬の体調がみるみる悪くなっていったのだ。それもそのはず、それまでずっと面倒をみてくれていた飼い主がいきなり二人ともいなくなってしまったのだ。態度ではわからないが、ストレスを感じていたのだろう。結局、4月の末になる頃、家の中で失禁するようになり、自力で立てなくなっていき、動物病院につれていくと、かかりつけのドクターがこの子はもう肝臓の数値も悪くなっていてもう寿命だから安楽死させてあげてはどうかと提案してきた。いったん入院させてもらって翌日まで結論を持ち越し、共通の友人達にも相談して、もともと恩師は自力でトイレに行けなくなったら安楽死させるつもりだったと聞かされていたので、恩師に伝えるかどうかはあとで考えるとして、この子を楽にしてあげようということになった。

私たち夫婦で交互に何度もハグしながら、筋弛緩剤が注射されて力が抜けていくのを見守った。そして数日後、灰になったその子を、恩師の奥様の骨壷の隣に置いた。恩師の愛犬と過ごした日々の日記を、記憶があざやかなうちに書いてご家族に送った。ご家族は、この内容はまだ見せられる心理状態ではないということで、私たちから手紙を預かっているから読めるようになったら読んでほしい、そして犬が亡くなったという事実だけは伝えたほうがいいだろうということになった。すると、恩師もひとつ心のひっかかりがとれたようで、悲しさもあるけれども、いつまでも私たちにこのような生活をお願いしつづけることはできないという思いが負担にもなっていたから、思ったよりも冷静に受け止めることができたようだった。そしてそれから数日後、家の鍵を代理人に引き渡し、私たちは自分たちの家へと引き返した。

私たち夫婦は、たった2ヶ月のあいだに、奥様とその愛犬と、ふたつの命をともに見送った。非日常的で、とても静かで、ポカポカと温かい陽気の季節を、恩師の家で命のことを考える霊的な時間を過ごした。当時は福島原発のニュースもずっとやっていたから、それも含めて、私たちはあのときはじめて、命というものの重みと、はかないほどの軽さという矛盾した二面性に向き合わざるをえなかった。

その恩師は、それから数年後に立ち直り、再婚し、つい2-3ヶ月前にニューヨークへ引っ越した。思い出の詰まりすぎたあの家は、もう住むにはつらすぎるということで、手放してしまった。ちょうど私たちも同じ時期に仕事の関係でニューヨークへ引っ越す予定だったので、妻の病気が発覚する以前から、あちらで会いましょうという話になっていたのだ。

だいぶ話がそれたが、そんな命をかけた絶望のふちを共に歩いてきた恩師が、ニューヨークから妻のお見舞いにきてくれている。妻は幼馴染や家族でさえお見舞いに来てもらうのを渋っていたが、恩師は特別だった。

その恩師は奥様が亡くなったあと、数年後に再婚したわけなので、そのことが今の妻にとってどのような心象風景を描いたのかはわからない。もしかしたら、自分がいなくなったあとの私を重ねてみたりしただろうか。昔からオノ・ヨーコが再婚していないことをたびたび話題にするような人だったから、気にならないはずはない。しかし、あのときの恩師の悲しみと苦しみをその目で見ていたから、私たちはこの機会に会っておくべきだ、と思ったのかもしれない。

そんな恩師と、妻もしっかりと話ができて、元気になったらニューヨークで会いましょうという約束をした。

そして妻が疲れてしまってもいけないので、私と恩師は談話室に移動して話を続けた。もう少し具体的な相談として、日本に滞在しつつ米国の永住権を維持する方法についても相談に乗っていただいた。米国永住者でありながら急な事情で日本に帰ってきたという状況まで同じなのだ。

夕方からJ-POPの音楽番組をYouTubeで。

夕食は弁当を1/4、味噌汁、野菜ジュース。ウルソとメコバラミン

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8pm、体温は少し上がって37.1度。エストラーナテープ貼り替え、タペンタ。

10pm就寝。

0am頃、トイレで起き上がるが半眠り状態だったので記憶はないらしい。

3am頃、割とはっきり目が覚めたのでデジレルを追加。

1時間ほど起きていたが、そのあとまた眠り、6amまで。計7時間ぐらい睡眠。

義母と義弟のお見舞い

今日は大阪から義母と義弟がお見舞いにきてくれる日だ。

体温は相変わらず37度をこえている。

朝食は卵&ツナサンドイッチ少し、アマノフーズのコーンスープ、カロリーメイト缶を半分。

午前中は、CIPN (chemo-induced peripheral neuropathy) に対するL-カルニチンの効果についてさらに調査。効くという論文と、長期間服用すると逆に悪化するという論文があるので迷いを生じる。一方、弾性ストッキングやアイス手袋については臨床試験が進行中で、それなりの効果も出ているようだ。

妻にも、冷却グローブに関する大阪府立成人病センターの発表動画をみてもらう。

午後はゲストがくるので午前中に体を清拭をしてもらった後、リハビリのひょうたん型風船でベッド上の足踏み10分。

昼食は冷やし中華、根菜味噌汁と白米、カロリーメイト缶の残り、チョコアイス。

リハビリの歩行器を持ってきて立ち上がり1分を6セット。

3pm、義弟の運転で義母がきてくれる。お土産に大量のゼリー類を、ハワイでゲットしたという(なぜかSan Diegoの)Whole Foodsのエコバッグに入れて。

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みんなの笑い声が聞こえると、ホッとする。

夕食は母の弁当で俵おにぎり一個、チキン一個、キッシュ1/4、生野菜ジュース、野菜味噌汁、バニラもなか。

食後、すぐに便意をもよおしたようで、談話室で待機。しっかり大きめの便が出たらしい。下剤なしで二日連続の排便に成功。

その後、銭湯へ。

10pm、就寝。

2am、トイレ。尿意のため目が覚めたのだろうと思われる、長時間の放尿。

それ以降は6amまで深くはないものの眠れたようだ。

3連休へ

3連休に突入。8時間以上眠れたのは久々かもしれない。

4amのトイレ介助に起きたあと、目が冴えてしまったので、足首の痛みについてのリサーチ開始。弾性ストッキングや抗がん剤の投入中の手足冷却など対応策を発見。

朝食は、稲荷寿司と巻き寿司を一個づつ、りんご蒸しパンを1/3、カロリーメイト缶一本。かなり食べられるようになってきている。

ついでに品揃えチェックのためカップラーメンを撮影。

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H先生の回診で、メチコバールによるビタミンB12錠剤も追加で処方されることに。先生はこれからフェリーで岡山に帰宅するらしい。

ここ数日メディキュットの弾性ストッキングを履いていると、足首の調子がマシに感じるようなので、アマゾンで追加購入。

Amazon並行輸入でOral-B Glideのフロスを購入。妻のお気に入りブランドなので、どうしてもこれが使いたいと。

昼食は、インスタントの日清天ぷらそばミニとバニラもなか。

2pm、母が弁当とアマノフーズフリーズドライを持ってきてくれる。

その後、談話室で仕事。

4pm、病室に戻ってリハビリ。歩行器を使って立ち上がる回数を増やし、5-6回立ち上がることができた。今後少しづつ増やしていきたい。立ってる間に足回りを測りたいというので、巻き尺で測る。太もも周り36cm、ふくらはぎ26cm。健康時の太腿が47cmだったのでかなり痩せすぎ。しっかり戻していかないと。。。

夕食は早めの5:30pm、そばを半分、ちらし寿司を少し、アマノフーズの根菜味噌汁を半分。

7pmすぎに私が眠気に負けて寝ている間に、妻は久々に固形のそれなりに大きい便が出たらしい。

10pm、就寝。

だが眠れず、L-カルニチンについて調査。2am頃まで起きていた。妻はよく眠れているようだ。

4am、トイレ。

神経伝導検査

トータルで6時間近くは寝たが、あまり眠れた感じはないようだ。

朝食は食堂のホテルパンふたかじり、売店のうしおじさんカスタードロールケーキ半分、カロリーメイト缶一本、野菜ジュース少し。

H先生の回診で、高カロリー輸液をいったん止めることに。これからは頑張って食べてもらわねば。

10amからストレッチャーで運ばれて神経伝導検査へ。30分ぐらいかけて、足首や膝裏に電極をつけて、だんだん電気刺激を強くしていって反応をみたらしい。

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その間、病室で仕事。

昼食はバニラアイスと、売店の弁当を一口。その後、いつものように毎食後のウルソ。

1pm、いよいよ高カロリー輸液が外れる。

1:30pm、体重が36kgで先週から1kg増。

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午後、母がきてくれたので、雨の降るなか運転してもらって銭湯へ。

4pm頃、神経内科のM先生がきて、検査結果について説明してくれる。その途中でH先生もきて、二人同席で説明をきくことができた。やはり根本的には抗がん剤の影響なので薬を減量しない限りはそう簡単に改善する方法はなさそうだ。

夕食は、母の持ってきてくれたとき卵入り味噌汁に七分粥。私の弁当の三色丼ぶりも1/4ほど食べ、さらに食後にバニラもなかを食べたいというので売店で買ってくる。昼食後にお腹がすいたが間食せずに我慢していたので結構食べられたようだ。

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5pm、リハビリで歩行器を使って立つ練習の二日目。3-4回、立ち上がって20秒ほど姿勢を保つ。

8pm、タペンタ。

9pm、セロクエル

眠くなってきたので9:30pmにビ・シフロール、ロヒプノール、リリカを持ってきてもらう。

GyaoSEKAI NO OWARIDragon NightやMay JのライブのRAINBOWなどミュージックビデオを流していると、妻の寝息が聞こえ始めたので、10pm前に就寝。

4am前に目が覚めてデジレル追加がギリギリ間に合って、トイレ。

そこからは7amぐらいまで眠れた。合計で8-9時間眠れている。

夏休み楽しんできてください、の笑顔

6時間続けて眠れたことで、ようやく安心感が生まれてきた。

私は3:30amからはずっと起きていたので、その後の様子をみることもできた。

10am、G-CSF注射。あと二日やるらしい。

神経内科の先生は3pm過ぎまでこられないらしく、H先生は明日まで待つよりは今日排便してほしいということで、午後すぐに座薬を入れることに。

12pm頃にN先生がこられて、昨夜の薬の組み合わせはよく効いたと報告。明日から先生は夏休みだそうで、妻も「夏休み楽しんできてください」と笑顔で言う余裕が生まれたのをみて、ナースKさんが感嘆の声をあげる。

昼食はタニタ食堂の減塩味噌汁とバニラもなか、豚の生姜焼きを一切れ。

1pm、新レシカルボン座薬。最新の便秘薬だ。

しかし結局、小さいコロコロが数個出ただけらしい。

その後、談話室で仕事してる途中で母が弁当を持ってきてくれる。

3pm、病室に戻ってみると、作業療法士のM先生にマッサージを受けている。まだ神経内科の先生はこられてないのでまた談話室に戻ることにする。

3:30pmに神経内科の先生がこられたと呼び出されて病室に戻ると、プラスチックのハンマーのようなものを持ってきていて、足首の裏、膝下、肘の内側などを叩いていく。それから、足首から先を伸ばす動作で蹴ってみてと言われる。その結果、けっこう蹴る力もあるね、といわれる。両側性なので、脳ではなく末梢神経の障害で間違いないだろうとのこと。神経伝導検査を明日やることになっているが、この程度だとあまり重症ということにはならない様子だ。

今日は倦怠感がそれほど強くないらしく、ベッドで端座位になることができる。

5pm前、理学療法士のT先生がきて、いよいよ歩行器を使ってベッドから立ち上がるリハビリ開始。

夕食は卵丸ごと入りの味噌汁とおかゆ。私の水神市場の弁当とコロッケ、鳥レバーも少しだけ味見程度に。

8pm、タペンタ25mgとエストラーナテープ張り替え。トイレ。

9pm、セロクエル

10pm、ビシフロール、リリカ、ロヒプノール

10:50pm、就寝。

1am頃、一度目が覚めてトイレ。デジレル追加。

外は猛烈な台風でガラス窓が激しくガタガタ言うので眠れない。そのまま4am頃までヘッドフォンをして起きていた。

5am前、目が覚める。遅い時間なのでデジレルは出してもらえず、うとうとしつつ7:30am頃まで寝ていたようだ。

トータルで6時間程度の睡眠。