読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

「治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ」高山知朗

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

表題の本を読了。今回はそのレビューを兼ねて、約一年ぶりの投稿です。

がんを告知された患者がまず最初にとる行動といえば、病気や健康に関連する一般向けの本を読んだり、いわゆる「闘病記」カテゴリーのブログを読んだりといったことでしょう。

とくにそれまで健康だった人間は、いきなり医学用語を多用した「ムズカシイ」文献を読みこなせるわけもなく、もっとやさしい入り口を探すことになります。

多くの場合、病気のことを打ち明けて詳しく相談できるような医学の心得のある人は身近にはおらず、テレビや週刊誌で聞きかじった玉石混交の情報をあれこれインプットしてくる親族に耳を傾けたり、同じような境遇の人が書いた「闘病記」を読みふけったり、重すぎる現実を受け入れられないがために自分にとって都合の良いことが書かれている、医学的な正確性には重きを置いてない本へと流されていきます。

たとえば「食事療法だけでガンが消える」や、「ガンの放置療法」などのキャッチフレーズは、手術・抗がん剤放射線といった怖い治療を受けたくないと心のどこかで思っている患者心理にはとても魅力的に響きます。

妻の卵巣がん告知を受けたとき、私たちが最初にとった行動もそうでした。

今では自分がこんなことを口走ったことが信じられないという思いで後悔していますが、告知の翌日に集まった両家の家族に向かって私が言ったことといえば、「抗がん剤は病気を治せないただの毒だから、やらないほうがいいんじゃないか」というようなことでした。その前夜、妻自身とよく話し合った結果とはいえ、なんと無責任で浅はかな発言だったことでしょう。

正しい情報を持たない人間が、抗がん剤のイメージがもつ恐怖感に流されると、あっという間にこのような見当違いの結論を導き出してしまいます。(ヒント:病気を「根治する」ことだけが医学的介入の意義ではない、ということに、だいぶ後になってから気づきました)

でも、最初から正しい判断を下せる人間はいません。

その日から、私たちの情報戦が始まったのです。

科学的思考に慣れている私が、日本婦人科腫瘍学会の標準治療ガイドラインを(最終的には英語文献から引用されたデータの誤植を学会に指摘して修正してもらうというレベルに到達するまで)隅々まで読み込めるように、急いで医学的知識を詰め込んでいく傍らで、妻はひたすら自分と近い年齢、近い境遇の同病人が書いている闘病記ブログを探しては読んでいました。

妻にとっては、情報を集めているというよりも、病気のことを相談できる友人がいない状況のなかで、慰めを求めているという感じでした。それはそれで、ガンという孤独な病気と戦うための、心の支えとなる非常に重要な要素ではあります。

医学の下地となる知識がなかった当時の私には、ガイドラインフローチャートは頭に叩き込めても、どうしても言葉の背景にある概念まで掘り下げては理解できず、このサブタイプ診断がついたら次の選択肢はこちら、と記号として処理せざるを得ないことが多くありました。精神的な動揺を別にしても、決定的に時間が足りなかったのです。

とはいえ、治療は待ったなしで、どんどん重大な意思決定を迫られるポイントがやってきます。

最初のポイントは、手術。開腹手術か、内視鏡手術か、手術支援ロボットは使えるのか。縦に切るのか横に切るのか。限られた時間のなかで後悔しない最善の選択をするためには、まずはその目の前のポイントに集中して情報を集め、メリットとデメリットを検討し、将来の選択肢を減らさないオプションを選ぶ必要があります。正式な面会日を待たず、担当医にもどんどん質問をぶつけます。

ところが、何度もそういった意思決定のポイントを通過して知識を積み上げていくにつれ、医師が薦めてくる標準治療というのは「統計的に見て(注:つまり患者個々の事情は丸められているという点には留意したい)もっとも治療効果と忍容性のバランスが取れたオプションである」ということを追認しているだけ、という作業の繰り返しになっていることに気が付きます。

医学的に「枯れた」エビデンスがあり、なるべく医師の技量に頼らず安定的に結果の出せる治療を標準ガイドラインとして採用しているわけなので、そもそも当たり前なのですが、そんなこと駆け出しの患者は知るよしもありません。

こうして、標準治療への信頼を確立するまでが患者力の第一のステップ。

次に、標準治療に身を任せるようになると、だんだん患者として何もすることがない時間が増えてきます。そうすると、この時間を使って標準治療以上の結果を出せるよう何かやってみよう、何かせずにはいられない、と考えるようになります。

実は、真の患者力を試されるのはこの第二のステップにあると思います。

ここで、王道の医学的知識を深めたり、効果の証明されていない健康食品や特殊な治療法に飛びついたり、厳密な玄米菜食に固執するようになったり、いろいろな道がでてきます。

実は私たちも、健康食品・玄米菜食・鍼灸など、巷で言われている民間療法は色々とやってみました。これらのなかには、「何かをやっている」という自己満足が重要な要素であることも結構あります。だからこれらを一概に否定はしません。

「お金をかけすぎない」「(特に食事療法など)厳密に実行することでかえってストレスを溜めてはいけない」という点にさえ気をつけさえすれば、いろいろとやってみるのも良いと思います。

私たちの場合には当時まだ未知数の薬であった、抗PD-1抗体オプジーボをスイスから個人輸入して投与するという、1回あたり50-70万円ぐらいする薬に賭けていたので、「お金をかけすぎない」という点では説得力がありませんが、全く後悔はしていません。要するに、過剰な期待を持たず現実を冷静に踏まえて判断し、どのような結果になっても悔いを残さないということが大事なのだと思います。

悔いを残さないという意味では、標準治療を拒否しておきながら、望んだ結果が得られなかった場合の後悔というのは計り知れないものでしょう。標準治療ではなく別の道を行くというのは、「私のケースは標準治療にあてはまらない」という相当の知識に裏打ちされた確信と勇気が求められます。宝くじを買っておきながら、当たらなかったことに文句をいうようなメンタリティで選択してはいけないのです。

さて、ここまで長々と書いてきて、やはりこの高山さんの書かれた本にはかなわないなぁと改めて思いました。

この本には、がん患者の「患者力」を高めるために知っておくべき内容が、必要十分な濃さで簡潔にまとめられています。

私自身もこれまで大量のがん関連本、闘病記などを読んできましたが、本書ほど内容に偏りがなく、実践的で、変な誇張や強調もなく、感傷的な内容で埋め尽くすこともなく、また難しすぎることもないというバランスで、一方で病気の告知から寛解その後まで、それぞれの段階で心得として知っておくべき内容が患者の目線で網羅的に書かれた本にはお目にかかったことがありませんでした。

「がん告知されたばかりの患者さん」が最初に読む本として一番ふさわしい、著者の人柄のあたたかさが感じられる内容となっています。

おすすめです。

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

p.s.

当時の記録、半年あたり1ヶ月分ぐらいのペースでしか更新できてませんが、6月〜9月の分も、これから頑張って完成させます。気長にお待ち下さい。

妻を喪って

妻が亡くなってから、1ヶ月以上が経ちました。

病気の発覚から約8ヶ月の闘病の末、2015年9月6日、40歳での旅立ちでした。

本人の希望により、4月のアメリカ帰国後に再発してからのことはごく一部の人以外には伏せていたので、このブログでは3月12日のポストを最後に今日この記事を書くまで、ずっと更新が止まっていました。

このブログを読んで、あれからすっかり元気になって暮らしているものと思われていた方にとっては突然のご報告となることをお許し下さい。

私にとって妻の存在はあまりに大きく、人生の伴侶というより人生の全てでした。ともに過ごした時間は互いの生家の家族よりも長く、高校を卒業して京都の大学に通い始めてすぐの頃に出会ってからの21年間の何もかもを一緒に見、聞き、経験してきました。

これまで毎日欠かさず詳細につけてきた闘病中の日記が、いま手元に残されています。妻の後半生すべてを最後の一呼吸まで見届けた者の責務として、「怒涛の」としか表現しようのないこの半年間のできごとを、日付をさかのぼって埋めていきたいと思います。思い出すのもつらい記憶ですが、愛に満ちた濃厚な日々でもありました。

まず、これまでの経緯を整理してみます。

  • 2014年12月31日にアメリカから一時帰国(それ以前の経緯
  • 1月
    • 1月5日、初診、卵巣がん告知を受ける
    • 1月16日、入院、開腹手術にて左卵巣卵管摘出(妊孕性温存)
    • 1月27日、退院
  • 2月
    • 2月12日、「ステージ1aの類内膜腺癌グレード1+未熟奇形腫グレード1」との診断確定
  • 3月
    • 3月2日、PET-CT検査で
    • 3月5日、腫瘍マーカーもほぼ正常化したので経過観察に

ここまでが、これまでブログで公開してきた治療の経緯でした。

このあと、以下のようなことが起きました。以下の内容を、過去の日付に遡って詳細にブログに書いていく予定です。

  • 3月23日、アメリカへ帰国
  • 保険会社から日本滞在中に一方的に契約をキャンセルされていたので、猛烈に抗議して再契約、すぐに定期健診のため婦人科クリニックを探し、4月14日に予約を入れる
  • 4月に入ってから腰痛をうったえはじめる
  • 4月9日、鍼治療に行ってみるも改善せず、日ごとに痛みが強くなっていき我慢できないレベルに
  • 4月14日、婦人科クリニックで卵巣がん再発を告知され、アメリカで緊急手術を受けることに
  • 4月16日、入院中のヘルプのため母に航空券を手配し、飛んできてもらう
  • 4月17日、入院、右卵巣卵管・子宮・骨盤内リンパ節を切除するが、大動脈を巻き込んだ大きな腫瘍がとりきれなかったと言われる
    • このあとは化学療法で対処するしかないが、病理診断が確定しないと治療方針も決まらない
    • 執刀医の印象では、これは卵巣がんではなく、おそらく悪性リンパ腫ではないかとのことで、正確な病理検査のため、日本の主治医から1月に手術したときの切除標本の現物を至急送って欲しいと言われる
  • 術後2-3日の経過は悪くなく、腰の痛みの原因となっていた部分の摘出には成功したのかと思われた
  • しかし4月21日、退院予定日の早朝になって、妻がうめき声をあげて痛みを訴え始め、退院は不可能と判断される

ここから担当が婦人科の執刀医から腫瘍内科医に変更となり、ケースマネージャもアサインされ、医療用麻薬をどんどん増量していきながら、なかなか出てこない病理診断の結果を待つ日々がはじまりました。

日本から飛んできてくれた母には、自宅で飼っている犬の世話をしてもらいつつ、病院で食べる2人分の弁当を作ってもらったり、日本への本帰国に向けて荷物の片付けを進めてもらったりしていました。母はアメリカで車の運転をするのが怖いので、ラスベガス在住の日本人の友人たちに助けてもらって、買い出しに連れて行ってもらっていました。

私は、入院初日から寝袋で病室に寝泊まりしながら、病室と自宅をビデオチャットでつなぎっぱなしにして、いつでも声をかければ相手に届くようにしていました。(この病院はWiFiを無料で提供してくれていました)

いずれにせよ長期間の化学療法が必要となるのは確実なので、4月24日には胸から点滴できるようにCVポート埋め込み手術も行いました。

そして4月27日、日本から届いた原発巣の病理標本をみたところ奇形腫から高悪性度の肉腫が発生していて、もしこれが転移したのならあと1年もたないだろうと言われました。また、かなり特殊な事例のため、確実な診断を行うため州外の専門機関に病理標本を送ってセカンドオピニオンに出しているので、結果が出るまでにさらに時間がかかると言われました。これを聞いたとき、強烈なショックを受けると同時に、どんなことがあっても妻を日本に連れて帰ると決意したのでした。

しかしタイミング悪く、29日から日本はゴールデンウィークに突入、いまから予約を入れても主治医のいる病棟へ入院できるのは最短で5月11日と言われました。

アメリカで暮らし始めて10年、深く根を下ろしてきて、ラスベガスの住居は借家ではなく2年前に購入した持ち家でした。病院で寝泊まりする付き添い生活をしながら、空いた時間で引越し業者の手配からパッキング、不要品の処分・寄付、大掃除、賃貸で貸すための準備、これから請求されるであろう巨額の医療費に備えてお金を借りる手続き、犬を連れてかえるための検疫の準備などを同時並行で進めていきました。その間、トラブルも多々ありながら、母や友人たちのヘルプもあって、何もかもが一日の猶予もないギリギリの状態で進行していき、最終的には5月4日に退院し、なんとか5月7日の早朝便でラスベガスの我が家をあとにして日本へと発つことができたのでした。

そのあとは、なんとか週末を耐えぬき(このとき、本人は気づいてませんでしたが左鎖骨上部リンパ節が大きく腫れていて、こんなところまで転移しているのかと恐怖を感じました)、5月11日の月曜日に予定通り入院することができました。

ちなみに、病理標本を送った州外の専門機関というのは全米有数の医学専門大学院大学であるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)だったのですが、この時点でまだ病理検査の結果は出ていませんでした。

以下、続きます。

  • 5月11日、入院、アメリカでの病理検査の結果を待ちつつ、痛みのコントロール開始
  • 5月15日、造影CT撮影
  • 5月16日、やっとUCSFから病理の結果が届き、極めて稀な「横紋筋肉腫」との診断
    • またCTの結果、骨盤部に巨大な腫瘍があり、加えて肝臓や肺に多発転移していることがわかる
  • 5月18日、腫瘍に圧迫されて尿路が閉塞しないよう、尿管ステントを留置
  • 5月20日、横紋筋肉腫をターゲットとしたVAC療法1コース目を開始
  • 5月28日、一時退院に向けたリハビリ開始
  • 6月10日、VAC療法2コース目
  • 6月25日、40歳の誕生日を迎え、初の外出
  • 6月27日、二度目の外出、ランチへ
  • 6月28日、幼なじみの友人たちのお見舞い、この頃が一番調子が良かった
  • 7月1日、VAC療法3コース目、ここから体調が下り坂に
  • 7月7日、精神科の回診開始
  • 7月16日、神経内科の診察
  • 7月21日、造影CT撮影、思わしくない結果に泣き出してしまう
  • 7月22日、VAC療法4コース目
  • 7月28日、国立がん研究センターセカンドオピニオン
  • 7月29日、自費診療による抗PD-1抗体オプジーボ(一般名:ニボルマブ)投与の準備開始
  • 7月30日、1ヶ月ぶりに車椅子を出して病室の外へ、シャワーも浴びる
  • 8月1日、右太腿の痛みを訴え始める
  • 8月7日、右膝の感覚がなくなる
  • 8月13日、花火大会を病室から鑑賞
  • 8月17日、VAC療法5コース目
  • 8月28日、スイスからオプジーボが届く
  • 8月31日、持続硬膜外ブロックを導入
  • 9月1日、分子標的薬ヴォトリエント(一般名:パゾパニブ)服用開始
  • 9月2日、オプジーボ投与
  • 9月4日、何も飲めなくなる
  • 9月5日、体温・血圧低下、下顎呼吸、せん妄あり
  • 9月6日、2:30am、呼吸停止

以上のような経過をたどっていきました。

私はこの間ずっと病室のソファで寝泊まりしながら妻のそばで24時間を一緒に過ごす付き添い生活を続けていました。というのも、妻と私は、このいつ終わるともわからない入院生活を「ただ苦痛を耐え忍ぶだけの闘病の日々」ではなく「楽しいことやつらいことがある、いつもの日常生活の一部」としてとらえ、一日一日を大切にすることにしていたからです。

病室から出られない妻のために、モバイルルータでネット環境を構築して動画ストリーミングサービスを使って映画やアニメを一緒に観たり、私が外出するときにはiPhoneビデオチャット機能であるFaceTimeを使って外の風景を中継して、まるで一緒に出かけている気分でいられるような工夫もしました。

医師や看護師など医療従事者は、主として患者に苦痛が発生しているときにナースコールで呼び出されるので、入院患者は一日中苦しんでいるような印象を抱きがちかもしれません。しかし、1日24時間あれば、ぼーっとしてたり、不機嫌になったり、大笑いしたり、真剣に考え事をしたり、そしてちょっぴりほっこりする瞬間があったりするのです。ずっと患者と一緒に寄り添う立場になってみると、そういう別の真実が見えてくることがあります。

そして、そんな「まるで普段どおりの姿」を見ているからこそ、もう終わりが近いなんて信じられず、最後の最後まで不合理な希望を捨てきれず、あきらめきれないのだろうとも思います。

私はこれから、妻と過ごしたこの8ヶ月の、圧倒的な質量をもった感情の波に揺り動かされ続けた「日常」を詳細に書きつけていくことで、「妻のいなくなった世界」との向き合い方についての答えを探そうとしているのかもしれません。

もしかしたら、こんな詳細な記録を書き綴ったところで、そんなものを必要としているのは自分だけかも知れません。しかし、自分のためにこそ、この時期に起きたこと・感じたことを残しておきたいと思うのです。

5度の車椅子散歩

昨夜から早朝にかけての3度の嘔吐でバタバタし、睡眠不足で消耗しきっているところ、6amに同僚からの仕事のメッセージでそのまま起床。投資家対応で急ぎの用件なのですぐに電話して欲しいと言われる。

妻のそばを離れたくないので、病室から電話する。なるべく静かに過ごさせてあげたかったのだが、仕方がないので小声で話す。なるべく、妻に漏れ聞こえる話の中身がポジティブなものとなるように、意識して話をする。

とうとう妻が苦痛のあまり「しんどい。どうしたらええんやろう」と言ってくる。自分には、背中をさすってあげることぐらいしかできない。その後もまた「今回は今までで一番しんどい。どんどん蓄積していくんかなぁ」と不安を口にする。

なぜ、妻がこんな目にあわなければいけないのか。自分には何ができるのか。

7am、気分転換のため、車椅子を出して病棟内を散歩し、少しだけ朝日の光を浴びる。しかし、やはり体調がすぐれないのですぐに病室に戻る。

何度も大便に行くのでほとんど尿測ができない。まずウルソだけ飲む。

8am、もってきてくれた薬のうち、デカドロン4mg錠とナゼア0.1mg錠をまずのむ。吐き気が心配なのでタペンタは保留。ナゼアはあてにできないがステロイドのデカドロンは吐き気の緩和が期待できる。せっかくオピオイドを経口剤のタペンタに切り替えたのに、吐き気が強くなった今となっては飲むことがつらく、点滴のほうが良かったと思えてしまい、もどかしい。

朝だけで4度目の下痢。さすがに疲労困憊だ。

その後、落ち着きがなくベッド上でそわそわするので、タペンタ100mg飲んだところでふたたび車椅子を出して日を浴びにいく。またすぐ病室に戻る。

H先生がきて、今日はタペンタの残り25mg飲まなくて100mgだけでもいい、と言ってくれる。吐き気の苦痛のほうが痛みより大きいのでありがたい。また、食事がとれてないので点滴で補液を3本。ステロイドは、いつも8amと3pmで夜に効力が切れる傾向があるので、なるべく血中濃度が安定するように8am/8pmのサイクルでもokとなる。いずれにせよ嘔吐で眠れてないので、ステロイドの副作用よりも作用の不足を考慮するべきだろう。

どうも、お腹の音が弱いらしい。胃腸がうまく動いてないようだ。

ベッドの上で落ち着かず、ずっと起き上がったり変な姿勢で横になったりして苦しんでいるのがわかる。

気分転換のため、3度目の車椅子。途中で緩和ケア科のN先生とバッタリ会い、昨夜大量に吐いたこと、タペンタ100mgしか飲めなかったことなどを伝える。とりあえず、100mg飲めていればいいだろうと言ってもらえる。

昼前で太陽が真上なので、外まで出てみることに。正面玄関から右へ、日の当たるところまで行き、逆に取って返して通用口方面へ行くと風が強かったので引き返す。売店で手鞠寿司とポカリを買い、談話室へ。妻のアイスティーを病室の冷蔵庫から持ってきて、ひとりで手鞠寿司を食べながら、広い窓から見渡せる外の景色のいろんなものを見つけては談笑する。

いつも病棟にいる耳の遠い背の曲がったおばあちゃんのこと、煙の出ている煙突のこと、近場の古いマンション、100円ショップや、ボウリングのピンが屋上にある建物、銭湯にいるヤクザの身の上話、父の高松時代の昔話などなど。

こんなひとときが、じんわりと温かい。

病室に戻ってからも、やはりベッドで落ち着かない様子だったので、ソファのところにきて寝てもらう。両足を私の肩の上に乗せて足首のアキレス腱を強めにマッサージしてやると、気持ち良いという。昔からよく、一日中歩いて疲れたときなど、足首が痛いといって、こうして足首のマッサージをしてあげていたことを思い出す。

そうこうしている間にも、やはり落ち着きがなく、「ぼくはIに何かをしてほしいって言ってもらえると嬉しいんだよ。だから、車椅子を出して欲しいって言ってもらえると、すごく嬉しいんだよ」と伝えておいたからか、また外に出たいという。

4度目の車椅子。

途中、談話室が大掃除中でテーブルや椅子がどかされていた。

天気がよく、暖かい。妻は、ストールとケア帽子とマスクを身につけている。今度は、病院の正面玄関からスロープをおりて、右回りで駐輪場に行く。「これが借りてるチャリ(自転車)やで」と見せてあげながら、駐輪場を抜けて裏手へ出る。ほっかほっか亭のある側の海岸を見ながら回りこみ、遠隔地から住み込む医師用の宿舎を右手にみながら駐車場方面へ。駐車場の隣にある広い緑の公園のようなところも歩いてみる。その後、去年末にお世話になった救急外来をみながら通用口から病院へ入る。

その後、すぐ病室には戻らずに、6階の談話室に行ってみる。1階上がるだけで、いつもと違う景色がひろがり、テニスコートでプレイする人々の姿がよく見える。自動販売機でお気に入りのFauchonのレモンティーを買い、外を眺めていると、母からFaceTimeのコールがあり、病室にタオルケットと新しいピローケースを持ってきて、寝袋を持って帰ったときく。その後、妻は疲れたのかテーブルで突っ伏して寝ようとするので、病室から枕を持ってくることに。妻が寝てる間に読もうと、母が図書館から借りてきてくれた日野啓三の「都市の感触」も持っていくが、結局、談話室が寒いので病室に戻りたいという。

病室に戻って、ソファのところで横になったりしてみたが、やはり落ち着かず、ベッドに戻る。何度もトイレに行き、下痢を繰り返す。

その後、H先生がきて、出来る限りの吐き気コントロールはしているのだが、次回からは予期嘔吐のための薬も使おうという話に。先生はいつも親身に話を聞いてくれる。はじめて、妻が自分のことばで副作用のつらさを訴える。ぼくからも、今までで一番つらい一日だということを伝える。先生は、薬はもう飲まなくていいと言ってくれる。それから、下痢も続くようなら薬を出すとも。

理学療法士T先生がきてくれて、妻はしんどいのでリハビリはできないが足首のマッサージをしてほしいと自分から伝える。

いよいよ、午後だけでも数回の下痢(完全な水便)が続いたので、下痢止めの薬をお願いする。ロペラミド錠剤。

5:30pm、5度目の車椅子。

ちょうど出ようとしたところで緩和ケア科のN先生がきて、嘔吐や倦怠感などについて相談。タペンタは100mgで良いと再確認。足首の疲労感で落ち着かないことを伝えると、むずむず脚症候群かも知れないという。治療薬としては飲み薬になるというので、詳しく聞いてみると、やはり精神系の作用とのことで、ジプレキサとの併用が大丈夫かたずねると、そういえばジプレキサの副作用にも似たような症状の報告があるので、とりあえず長期投与しているジプレキサを止めようということに。

その後、車椅子で各フロアの談話室めぐりをしてみようということで、次は7階へ。また違った種類の自販機や、リハビリの器具が置いてある。次は一気に10階へ。ここの談話室は圧倒的に見晴らしが良い。そして1階に降りて行くが、外はもう日が落ちていたので、売店で塩さば弁当だけ買って帰ることに。

その後も足首の痛みが収まらないようなので、残っていたモーラステープで局所麻酔を試みる。

しかし、あまり効果がないようで、やはり落ち着かないので、今度は浮腫対策用のバンデージで足首を締めてみることに。

8pmにデキサメタゾン4mg錠とタペンタ100mg錠のみ飲む。

下痢もようやくおさまってきた。

しかし、8pmに飲んだステロイドの影響で眠れない。

11:30pm頃に睡眠導入剤グッドミンを出してもらったが、1時間ぐらいウトウトしてまた目が覚めたので、今度は睡眠薬を出してもらおうとしたが、もう出せないと言われて却下される。

と思ったら、深夜3amにいきなり吐いた。

8pmに飲んだステロイドも効かなかったようだ。

目まぐるしく感情が揺さぶられる一日。

VAC療法C3D1、急転直下の体調不良

今日は3サイクル目の抗がん剤の日。

妻の体調がよくない。

夜中に何度も寝返りをうっているのがわかる。もしかして、昨日のシャワーで冷えて風邪をひいてしまったのだろうか。今日から抗がん剤ということで、予期不安で体調が悪くなるということもあるのかもしれないが、本当に体調が悪い場合でも抗がん剤は決行すべきなのだろうか。よくわからない。よくわからないが、時間は無情に過ぎていく。

6am採血。

7:30am過ぎ、元気も食欲もなくずっと横になっている。少量の食事で栄養バランスを良くするため、グラノーラ&ヨーグルトだけ食べてもらう。

9amから抗がん剤の準備開始。つなぎなおしたポートでも点滴がまったく落ちないので、H先生にフラッシュしてもらい、吐き気予防のアロキシ0.75mg&デキサート9.9mg滴下開始。順調に終了。

血圧111/77、脈72、酸素97。

体重の減少を報告したのだが、投与量はさほど減量されていない。

11am前からコスメゲン開始。11:22am終了。

ウロミテキサン(メスナ)の注射にH先生がいなかったので、女医のH先生が担当してくれる。

11:30amからエンドキサン開始。今日は順調に滴下。12:30pmには終わりそう。

足のしびれが強いらしく、足を挙上して足首マッサージする。さらに弾性ストッキングも着用。エンドキサン滴下中に便意があり、小・大と続けて。また、吐き気も強くなってきたようで、吐きそうだという。

ベッド脇に行って手を握ると、無言で握り返してくる。あまりに苦しそうな姿に、自分も思わず涙目になってしまう。

昨日までの絶好調はどこへ行ってしまったのか。

毎週水曜日の1-10スケールのアンケート用紙に、痛みが1である以外は吐き気、倦怠感、不安、気持ちの落ち込みなどほぼ全ての項目に10をつけている。本当につらいのがわかるが、どうしたらいいのかわからない。

昼食は、食べられないというので、売店でゆずシャーベットとひがさのコロッケミックス弁当を買ってくる。かろうじてシャーベット半分のみ食べてウルソを飲む。

ようやく眠りについたので、2pm前、3日ぶりに風呂へ行くことに。昨日はミーティングと雨でタイミングを逃してしまった。吉野湯へは病院から自転車で5分かからずに着く。

平日昼間のこの銭湯は、刺青の人たちを結構みかける。この病院の近くには花街があり、そこに縄張りを持っているヤーさん達が常連なのだろう。

風呂あがりに、せっかく自転車できているので、片原町商店街のほうへ。Google Mapsで「小麦工房パン屋さん」というベーカリーを見つけていたので、立ち寄ってみる。店の人にきくと、7amからオープンという。妻が元気になったときに見せられるよう、とりあえず写真だけとって何も買わずに出る。

3pm過ぎ、病室に戻ると、ちょうど母が弁当をもってきてくれた。1ヶ月ぐらいソファで寝るときの布団として使っている白いタオルケットを洗濯のために持って帰ってもらう。

3:30pm、O先生の手引でメスナ注射。

4:30pm前、吐き気対策でH先生が頓服のプリンペランを2時間置きで処方してくれ、ナースOさんの手引で横から静注。

7:30pm、先生はもういないので、ウロミテキサン643.63mgを点滴経由で。

8pm、タペンタ。100mg錠を飲んだところで強い吐き気に見舞われたので、いったん残りの25mg錠を引き上げてもらい、すぐにプリンペランをオーダー。同時にアイスノンを出してもらい、後頭部や足首を冷やしてみる。

テーブルの上に足をのせたり、いろいろやってみるが、結局はベッドの機能で足を24度まで挙上することで落ち着く。

9:30pm、就寝。

と思ったら、

10:30pm過ぎ、突然の嘔吐。大量で、うがい受けが一杯になってビニール袋を交換している最中にもうひとつのうがい受けに吐いてしまった。

3:30amにも2度目の嘔吐。直前に入れた座薬の制吐剤が便意をもよおし、効果のでてくる15分も我慢できず5分ほどでトイレに駆け込んでしまった。排便自体は一応あったらしい。

5am過ぎに3度目の嘔吐。プリンペランの注射は何度も腕に刺すので痛いし、今回は2/3まで入れたところで腫れてきたので中止に。

プリンペランは効かないとわかっているのに、吐き気に苦しむ妻の姿を見るのが耐え難い。

最悪の状況だ。

点滴フリー、一緒にシャワー

朝、起きても痛みはないという。

そのかわり、足の裏のピリピリしたしびれが昨日よりも強くなっているようだ。一難去ってまた一難。また、体もだるいという。

8am、タペンタを100+25mg飲む。

10am、H先生がきて、とうとう最後の生食も抜けて完全な点滴フリーに!

何にもつながれていない状況というのは、本当に素晴らしい。大声で「やったー!」と叫び出したい気持ちに駆られる。

もしかしたら、このままどんどん良くなって退院できる日がくるのではないか?もしかしたら奇跡的に治ってしまうこともありうるのでは?と思わずにはいられない。

ただ、また明日から次のサイクルの抗がん剤が始まるので、ポートの針は残したままに。足のしびれは、おそらく抗がん剤の副作用だが、温めるなどして悪くならないように工夫していくしかない、とのこと。

その後、妻と一緒に全身シャワーを浴びることに。看護師に頼らず、自分の手だけで妻の体を流してあげられるのは、アメリカで入院していた5月以来だ。浴室にはOさんが足湯も用意してくれていた。ポート部を濡れないようにガーゼとフィルムでしっかりカバーして、椅子に座っている間に足から頭まで全身をくまなく洗う。タオルは使わずに、手だけで。なぜか着替え室がやたら寒いので、浴室内で着替えを済ませる。その後、病室に戻ってシーツ交換を待つ間にドライヤー。二人ともスッキリ。

風呂にはいってるとき、仙骨の突起が左右対称に浮き出ていることを言ったからか、そのことを気にするようになり、寝ているとそこが痛むという。今まで何も気にしてなかったんだから、気にしすぎだよと言って流す。

昼前、体がかなりだるそうだ。鼻もよくかむ。もしかしたら風邪をひいてしまったのかもしれない。一日ずっと寝ている。

1pm過ぎ、母が弁当と洗濯物を持ってきてくれる。妻は目を覚まさない。

3pm過ぎ、作業療法士のMさんがきてくれたが、妻の体調が悪いのでリハビリはせず、しびれた足のマッサージをしてくれる。

その途中で談話室に行って仕事。

6pmに戻るも、やはり食欲がないといい、無理にほんの少しだけ弁当を食べる。

7pmからフォンブースでミーティング。

9:30pm前に病室に戻る。ようやく少し目が覚めたようで、U-NextでPsycho-Pass 2、エマ、バジリスク甲賀忍法帖、Rainbow二舎六房の七人をみて就寝。

夕焼け

夜中の1am過ぎに一度起きただけ。昨日も疲れたからよく眠れたのかな?

5:30am起床、そのまま採血。

触ると足の甲と足の裏がピリピリするというので、経過をみていくことに。ビンクリスチンの末梢神経障害の副作用が出つつあるのかも?

朝食は五剣山バウムクーヘン残り最後の一切れ、売店で買ってきた昆布おにぎり、グラノーラ&ヨーグルトを少し。朝食は結構しっかり取れるようになってきた。

9am前、トイレで入れ違いになったO先生に採血結果をプリントアウトしてもらう。白血球は3.5で正常値をほんの少し下回り、ヘモグロビンも9.7と少し下がってしまったが、ALPとγ-GTPは改善傾向。ウルソが効いてくれているのだろうか。

今日もずっと眠気が強いようで、目を覚まさない。

午前中は談話室で仕事。

ナースが置き忘れた伝票をみると、50mg/5mLオキファスト注4A、速度0.6ml/h、生食500mL:1袋、速度20ml/hなどとある。

昼食は売店で買ってきたマルシェのステーキ弁当。

3pm、H先生がきて、血栓の数値も改善してきたので、今後は女性ホルモン補充のパッチを出していくと説明。ジプレキサをやめるかどうか考えたが、ザイディス錠という剤形の都合上、5mgの半量のものがないので減量もできず、抗がん剤の吐き気予防に効いてるかもしれないので、とりあえず継続する方向で。

4pm過ぎ、緩和ケア科のN先生がきて、1/3づつ入れ替えていくなら本日からタペンタを100->150mgにすべきだが、同時に減量も試みているため、125mgにして、いよいよオキファストを止めることに。タペンタにはレスキューがないので、吐き気の副作用の可能性が低いフェンタニル舌下錠を第一選択、オキシコドンの粉末をバックアップとして試してみることに。

その後、談話室でまた仕事。

5:30pmに戻ると、薬剤師のHさんがきてアブストラル舌下錠とオキノーム散について説明中。タペンタの50mg錠剤を7月から扱うようになるらしい。

7pm、夕焼けをみに車椅子で病棟の西へ。あまりに美しい日没に言葉を失う。談話室に飾られていた花も華やかで美しい。

8pm、タペンタを125mgに増量。

10pm、いよいよオキファストが抜けて生食一本に。明日の朝にはこれも抜けて、いよいよ点滴フリーに!

友人たちのお見舞い、レンタサイクル

夜中に1度しか目が覚めなくなってきた。

朝食はクリームドーナツぽい菓子パンとバウムクーヘングラノーラ&ヨーグルトなど。

昨日、毎月27日が銭湯の吉野湯の定休日で2日間風呂に入れなかったので、妻の幼なじみの友人たちが大阪から遊びに来る前、午前中に久々にいったん帰宅してシャワーを浴びてくることに。

9am頃に母に迎えに来てもらい、帰宅。シャワーを浴び、弁当や水、妻のノートパソコンなどをもって帰る。

昼、お腹がすいてこないので、少し待つ。

1pm前、弾性ストッキングをはいて談話室に行き、Kちゃん、S、Mちゃん、Eちゃんが来るのを待つ。しかしなかなか到着しないので、弁当を自分一人で食べてしまう。

1:30pm、みんなが到着してからは楽しく談笑。昔話に花を咲かせるのに一緒に参加する。お見舞いにたくさんのものをいただく。千羽鶴、生のリース、つけまつ毛キット、洗顔用具などなど。

結局、4pm過ぎまで談話室を占拠して話し続けた。幼なじみの常として、昔話をたくさん。そして今の病院生活のことなど。その中に自分も混じっていると、妻が話しにくいこともあるのではないかとも思ったが、とくにそういうことは言ってこないのでそのままずっと一緒に話しに混ざっていた。今にして思えば、少し気を利かせて途中で抜けたほうが良かったのかもしれない。。。

さすがにちょっと疲れたようで、その後はほとんどの時間をうとうとして過ごす。

夕方、両親のピックアップで高松駅へ行き、レンタサイクルを借りてくる。月2000円で行動範囲が大きく広がるので、これから長くなるであろう病院生活を送るのに便利だ。病院の食堂や売店のものに飽きてきたら、少し足を伸ばして高松市内のお店で買ってくることができる。

帰り道は自転車で、高松駅から病院まで5分ぐらいですっと帰ってこれる。駐輪場に停め、施錠する。普通の人は病院「へ」通うのに使うのだろうが、自分の場合は病院「から」どこかへ出かけるために使う。

妻の夕食は、母親が作ってきてくれた味噌汁とおにぎり弁当を1/4程度食べる。

その後、「家政婦のミタ」を最終話まで一気に観る。

気がついたら、最終話のあとの総集編を見てる途中で入眠してしまった。