ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

「治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ」高山知朗

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

表題の本を読了。今回はそのレビューを兼ねて、約一年ぶりの投稿です。

がんを告知された患者がまず最初にとる行動といえば、病気や健康に関連する一般向けの本を読んだり、いわゆる「闘病記」カテゴリーのブログを読んだりといったことでしょう。

とくにそれまで健康だった人間は、いきなり医学用語を多用した「ムズカシイ」文献を読みこなせるわけもなく、もっとやさしい入り口を探すことになります。

多くの場合、病気のことを打ち明けて詳しく相談できるような医学の心得のある人は身近にはおらず、テレビや週刊誌で聞きかじった玉石混交の情報をあれこれインプットしてくる親族に耳を傾けたり、同じような境遇の人が書いた「闘病記」を読みふけったり、重すぎる現実を受け入れられないがために自分にとって都合の良いことが書かれている、医学的な正確性には重きを置いてない本へと流されていきます。

たとえば「食事療法だけでガンが消える」や、「ガンの放置療法」などのキャッチフレーズは、手術・抗がん剤放射線といった怖い治療を受けたくないと心のどこかで思っている患者心理にはとても魅力的に響きます。

妻の卵巣がん告知を受けたとき、私たちが最初にとった行動もそうでした。

今では自分がこんなことを口走ったことが信じられないという思いで後悔していますが、告知の翌日に集まった両家の家族に向かって私が言ったことといえば、「抗がん剤は病気を治せないただの毒だから、やらないほうがいいんじゃないか」というようなことでした。その前夜、妻自身とよく話し合った結果とはいえ、なんと無責任で浅はかな発言だったことでしょう。

正しい情報を持たない人間が、抗がん剤のイメージがもつ恐怖感に流されると、あっという間にこのような見当違いの結論を導き出してしまいます。(ヒント:病気を「根治する」ことだけが医学的介入の意義ではない、ということに、だいぶ後になってから気づきました)

でも、最初から正しい判断を下せる人間はいません。

その日から、私たちの情報戦が始まったのです。

科学的思考に慣れている私が、日本婦人科腫瘍学会の標準治療ガイドラインを(最終的には英語文献から引用されたデータの誤植を学会に指摘して修正してもらうというレベルに到達するまで)隅々まで読み込めるように、急いで医学的知識を詰め込んでいく傍らで、妻はひたすら自分と近い年齢、近い境遇の同病人が書いている闘病記ブログを探しては読んでいました。

妻にとっては、情報を集めているというよりも、病気のことを相談できる友人がいない状況のなかで、慰めを求めているという感じでした。それはそれで、ガンという孤独な病気と戦うための、心の支えとなる非常に重要な要素ではあります。

医学の下地となる知識がなかった当時の私には、ガイドラインフローチャートは頭に叩き込めても、どうしても言葉の背景にある概念まで掘り下げては理解できず、このサブタイプ診断がついたら次の選択肢はこちら、と記号として処理せざるを得ないことが多くありました。精神的な動揺を別にしても、決定的に時間が足りなかったのです。

とはいえ、治療は待ったなしで、どんどん重大な意思決定を迫られるポイントがやってきます。

最初のポイントは、手術。開腹手術か、内視鏡手術か、手術支援ロボットは使えるのか。縦に切るのか横に切るのか。限られた時間のなかで後悔しない最善の選択をするためには、まずはその目の前のポイントに集中して情報を集め、メリットとデメリットを検討し、将来の選択肢を減らさないオプションを選ぶ必要があります。正式な面会日を待たず、担当医にもどんどん質問をぶつけます。

ところが、何度もそういった意思決定のポイントを通過して知識を積み上げていくにつれ、医師が薦めてくる標準治療というのは「統計的に見て(注:つまり患者個々の事情は丸められているという点には留意したい)もっとも治療効果と忍容性のバランスが取れたオプションである」ということを追認しているだけ、という作業の繰り返しになっていることに気が付きます。

医学的に「枯れた」エビデンスがあり、なるべく医師の技量に頼らず安定的に結果の出せる治療を標準ガイドラインとして採用しているわけなので、そもそも当たり前なのですが、そんなこと駆け出しの患者は知るよしもありません。

こうして、標準治療への信頼を確立するまでが患者力の第一のステップ。

次に、標準治療に身を任せるようになると、だんだん患者として何もすることがない時間が増えてきます。そうすると、この時間を使って標準治療以上の結果を出せるよう何かやってみよう、何かせずにはいられない、と考えるようになります。

実は、真の患者力を試されるのはこの第二のステップにあると思います。

ここで、王道の医学的知識を深めたり、効果の証明されていない健康食品や特殊な治療法に飛びついたり、厳密な玄米菜食に固執するようになったり、いろいろな道がでてきます。

実は私たちも、健康食品・玄米菜食・鍼灸など、巷で言われている民間療法は色々とやってみました。これらのなかには、「何かをやっている」という自己満足が重要な要素であることも結構あります。だからこれらを一概に否定はしません。

「お金をかけすぎない」「(特に食事療法など)厳密に実行することでかえってストレスを溜めてはいけない」という点にさえ気をつけさえすれば、いろいろとやってみるのも良いと思います。

私たちの場合には当時まだ未知数の薬であった、抗PD-1抗体オプジーボをスイスから個人輸入して投与するという、1回あたり50-70万円ぐらいする薬に賭けていたので、「お金をかけすぎない」という点では説得力がありませんが、全く後悔はしていません。要するに、過剰な期待を持たず現実を冷静に踏まえて判断し、どのような結果になっても悔いを残さないということが大事なのだと思います。

悔いを残さないという意味では、標準治療を拒否しておきながら、望んだ結果が得られなかった場合の後悔というのは計り知れないものでしょう。標準治療ではなく別の道を行くというのは、「私のケースは標準治療にあてはまらない」という相当の知識に裏打ちされた確信と勇気が求められます。宝くじを買っておきながら、当たらなかったことに文句をいうようなメンタリティで選択してはいけないのです。

さて、ここまで長々と書いてきて、やはりこの高山さんの書かれた本にはかなわないなぁと改めて思いました。

この本には、がん患者の「患者力」を高めるために知っておくべき内容が、必要十分な濃さで簡潔にまとめられています。

私自身もこれまで大量のがん関連本、闘病記などを読んできましたが、本書ほど内容に偏りがなく、実践的で、変な誇張や強調もなく、感傷的な内容で埋め尽くすこともなく、また難しすぎることもないというバランスで、一方で病気の告知から寛解その後まで、それぞれの段階で心得として知っておくべき内容が患者の目線で網羅的に書かれた本にはお目にかかったことがありませんでした。

「がん告知されたばかりの患者さん」が最初に読む本として一番ふさわしい、著者の人柄のあたたかさが感じられる内容となっています。

おすすめです。

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ

p.s.

当時の記録、半年あたり1ヶ月分ぐらいのペースでしか更新できてませんが、6月〜9月の分も、これから頑張って完成させます。気長にお待ち下さい。

妻を喪って

妻が亡くなってから、1ヶ月以上が経ちました。

病気の発覚から約8ヶ月の闘病の末、2015年9月6日、40歳での旅立ちでした。

本人の希望により、4月のアメリカ帰国後に再発してからのことはごく一部の人以外には伏せていたので、このブログでは3月12日のポストを最後に今日この記事を書くまで、ずっと更新が止まっていました。

このブログを読んで、あれからすっかり元気になって暮らしているものと思われていた方にとっては突然のご報告となることをお許し下さい。

私にとって妻の存在はあまりに大きく、人生の伴侶というより人生の全てでした。ともに過ごした時間は互いの生家の家族よりも長く、高校を卒業して京都の大学に通い始めてすぐの頃に出会ってからの21年間の何もかもを一緒に見、聞き、経験してきました。

これまで毎日欠かさず詳細につけてきた闘病中の日記が、いま手元に残されています。妻の後半生すべてを最後の一呼吸まで見届けた者の責務として、「怒涛の」としか表現しようのないこの半年間のできごとを、日付をさかのぼって埋めていきたいと思います。思い出すのもつらい記憶ですが、愛に満ちた濃厚な日々でもありました。

まず、これまでの経緯を整理してみます。

  • 2014年12月31日にアメリカから一時帰国(それ以前の経緯
  • 1月
    • 1月5日、初診、卵巣がん告知を受ける
    • 1月16日、入院、開腹手術にて左卵巣卵管摘出(妊孕性温存)
    • 1月27日、退院
  • 2月
    • 2月12日、「ステージ1aの類内膜腺癌グレード1+未熟奇形腫グレード1」との診断確定
  • 3月
    • 3月2日、PET-CT検査で
    • 3月5日、腫瘍マーカーもほぼ正常化したので経過観察に

ここまでが、これまでブログで公開してきた治療の経緯でした。

このあと、以下のようなことが起きました。以下の内容を、過去の日付に遡って詳細にブログに書いていく予定です。

  • 3月23日、アメリカへ帰国
  • 保険会社から日本滞在中に一方的に契約をキャンセルされていたので、猛烈に抗議して再契約、すぐに定期健診のため婦人科クリニックを探し、4月14日に予約を入れる
  • 4月に入ってから腰痛をうったえはじめる
  • 4月9日、鍼治療に行ってみるも改善せず、日ごとに痛みが強くなっていき我慢できないレベルに
  • 4月14日、婦人科クリニックで卵巣がん再発を告知され、アメリカで緊急手術を受けることに
  • 4月16日、入院中のヘルプのため母に航空券を手配し、飛んできてもらう
  • 4月17日、入院、右卵巣卵管・子宮・骨盤内リンパ節を切除するが、大動脈を巻き込んだ大きな腫瘍がとりきれなかったと言われる
    • このあとは化学療法で対処するしかないが、病理診断が確定しないと治療方針も決まらない
    • 執刀医の印象では、これは卵巣がんではなく、おそらく悪性リンパ腫ではないかとのことで、正確な病理検査のため、日本の主治医から1月に手術したときの切除標本の現物を至急送って欲しいと言われる
  • 術後2-3日の経過は悪くなく、腰の痛みの原因となっていた部分の摘出には成功したのかと思われた
  • しかし4月21日、退院予定日の早朝になって、妻がうめき声をあげて痛みを訴え始め、退院は不可能と判断される

ここから担当が婦人科の執刀医から腫瘍内科医に変更となり、ケースマネージャもアサインされ、医療用麻薬をどんどん増量していきながら、なかなか出てこない病理診断の結果を待つ日々がはじまりました。

日本から飛んできてくれた母には、自宅で飼っている犬の世話をしてもらいつつ、病院で食べる2人分の弁当を作ってもらったり、日本への本帰国に向けて荷物の片付けを進めてもらったりしていました。母はアメリカで車の運転をするのが怖いので、ラスベガス在住の日本人の友人たちに助けてもらって、買い出しに連れて行ってもらっていました。

私は、入院初日から寝袋で病室に寝泊まりしながら、病室と自宅をビデオチャットでつなぎっぱなしにして、いつでも声をかければ相手に届くようにしていました。(この病院はWiFiを無料で提供してくれていました)

いずれにせよ長期間の化学療法が必要となるのは確実なので、4月24日には胸から点滴できるようにCVポート埋め込み手術も行いました。

そして4月27日、日本から届いた原発巣の病理標本をみたところ奇形腫から高悪性度の肉腫が発生していて、もしこれが転移したのならあと1年もたないだろうと言われました。また、かなり特殊な事例のため、確実な診断を行うため州外の専門機関に病理標本を送ってセカンドオピニオンに出しているので、結果が出るまでにさらに時間がかかると言われました。これを聞いたとき、強烈なショックを受けると同時に、どんなことがあっても妻を日本に連れて帰ると決意したのでした。

しかしタイミング悪く、29日から日本はゴールデンウィークに突入、いまから予約を入れても主治医のいる病棟へ入院できるのは最短で5月11日と言われました。

アメリカで暮らし始めて10年、深く根を下ろしてきて、ラスベガスの住居は借家ではなく2年前に購入した持ち家でした。病院で寝泊まりする付き添い生活をしながら、空いた時間で引越し業者の手配からパッキング、不要品の処分・寄付、大掃除、賃貸で貸すための準備、これから請求されるであろう巨額の医療費に備えてお金を借りる手続き、犬を連れてかえるための検疫の準備などを同時並行で進めていきました。その間、トラブルも多々ありながら、母や友人たちのヘルプもあって、何もかもが一日の猶予もないギリギリの状態で進行していき、最終的には5月4日に退院し、なんとか5月7日の早朝便でラスベガスの我が家をあとにして日本へと発つことができたのでした。

そのあとは、なんとか週末を耐えぬき(このとき、本人は気づいてませんでしたが左鎖骨上部リンパ節が大きく腫れていて、こんなところまで転移しているのかと恐怖を感じました)、5月11日の月曜日に予定通り入院することができました。

ちなみに、病理標本を送った州外の専門機関というのは全米有数の医学専門大学院大学であるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)だったのですが、この時点でまだ病理検査の結果は出ていませんでした。

以下、続きます。

  • 5月11日、入院、アメリカでの病理検査の結果を待ちつつ、痛みのコントロール開始
  • 5月15日、造影CT撮影
  • 5月16日、やっとUCSFから病理の結果が届き、極めて稀な「横紋筋肉腫」との診断
    • またCTの結果、骨盤部に巨大な腫瘍があり、加えて肝臓や肺に多発転移していることがわかる
  • 5月18日、腫瘍に圧迫されて尿路が閉塞しないよう、尿管ステントを留置
  • 5月20日、横紋筋肉腫をターゲットとしたVAC療法1コース目を開始
  • 5月28日、一時退院に向けたリハビリ開始
  • 6月10日、VAC療法2コース目
  • 6月25日、40歳の誕生日を迎え、初の外出
  • 6月27日、二度目の外出、ランチへ
  • 6月28日、幼なじみの友人たちのお見舞い、この頃が一番調子が良かった
  • 7月1日、VAC療法3コース目、ここから体調が下り坂に
  • 7月7日、精神科の回診開始
  • 7月16日、神経内科の診察
  • 7月21日、造影CT撮影、思わしくない結果に泣き出してしまう
  • 7月22日、VAC療法4コース目
  • 7月28日、国立がん研究センターセカンドオピニオン
  • 7月29日、自費診療による抗PD-1抗体オプジーボ(一般名:ニボルマブ)投与の準備開始
  • 7月30日、1ヶ月ぶりに車椅子を出して病室の外へ、シャワーも浴びる
  • 8月1日、右太腿の痛みを訴え始める
  • 8月7日、右膝の感覚がなくなる
  • 8月13日、花火大会を病室から鑑賞
  • 8月17日、VAC療法5コース目
  • 8月28日、スイスからオプジーボが届く
  • 8月31日、持続硬膜外ブロックを導入
  • 9月1日、分子標的薬ヴォトリエント(一般名:パゾパニブ)服用開始
  • 9月2日、オプジーボ投与
  • 9月4日、何も飲めなくなる
  • 9月5日、体温・血圧低下、下顎呼吸、せん妄あり
  • 9月6日、2:30am、呼吸停止

以上のような経過をたどっていきました。

私はこの間ずっと病室のソファで寝泊まりしながら妻のそばで24時間を一緒に過ごす付き添い生活を続けていました。というのも、妻と私は、このいつ終わるともわからない入院生活を「ただ苦痛を耐え忍ぶだけの闘病の日々」ではなく「楽しいことやつらいことがある、いつもの日常生活の一部」としてとらえ、一日一日を大切にすることにしていたからです。

病室から出られない妻のために、モバイルルータでネット環境を構築して動画ストリーミングサービスを使って映画やアニメを一緒に観たり、私が外出するときにはiPhoneビデオチャット機能であるFaceTimeを使って外の風景を中継して、まるで一緒に出かけている気分でいられるような工夫もしました。

医師や看護師など医療従事者は、主として患者に苦痛が発生しているときにナースコールで呼び出されるので、入院患者は一日中苦しんでいるような印象を抱きがちかもしれません。しかし、1日24時間あれば、ぼーっとしてたり、不機嫌になったり、大笑いしたり、真剣に考え事をしたり、そしてちょっぴりほっこりする瞬間があったりするのです。ずっと患者と一緒に寄り添う立場になってみると、そういう別の真実が見えてくることがあります。

そして、そんな「まるで普段どおりの姿」を見ているからこそ、もう終わりが近いなんて信じられず、最後の最後まで不合理な希望を捨てきれず、あきらめきれないのだろうとも思います。

私はこれから、妻と過ごしたこの8ヶ月の、圧倒的な質量をもった感情の波に揺り動かされ続けた「日常」を詳細に書きつけていくことで、「妻のいなくなった世界」との向き合い方についての答えを探そうとしているのかもしれません。

もしかしたら、こんな詳細な記録を書き綴ったところで、そんなものを必要としているのは自分だけかも知れません。しかし、自分のためにこそ、この時期に起きたこと・感じたことを残しておきたいと思うのです。

睡眠障害とレストレスレッグス症候群

持続投与しているドルミカムが5amでなくなるぐらい何度も(ほぼ30分おきに?)フラッシュ。

今までで一番眠れなかった日かもしれない。

赤ちゃんが生まれると2時間おきに授乳のために起こされて大変だというが、それよりも頻度が高い。しかもお腹が空いたなどということではなく、苦痛で目を覚ますのだ。なぜこのような拷問を私達が受けなければいけないのか。運命を呪うばかりである。

足首の痛みもどんどんひどくなっているようだ。

5amから6amぐらいまで、看護師の目を恥じることなくベッドで添い寝して腕をさすってあげると、すやすやと眠りに付く。呼吸も安定し、腕に浮き上がっていた血管も消失。

ところが、6amに目を覚ますと同時に、腕に血管があらわれ、手にじとっと汗をかきはじめ、全身の体温が上がるのがわかる。そして呼吸の苦しさを訴える。ナースをよぶと酸素をはかるが、いつも酸素の数値は問題ない。しかし、息を吸うのが苦しいという。

脚のしびれ、倦怠感、立ちくらみ、微熱、口の不快感など、自律神経失調症をうたがう症状がたくさんある。調べてみればみるほど、2ヶ月服用したジプレキサなどの離脱症状ではないかという気がする。

朝食は、メイバランスのヨーグルト味とカロリーメイト缶を少し。

8amにタペンタをもってくるが、飲めない。一方、女性ホルモン補充のためエストラーナパッチを開始。これも自律神経の問題の軽減に貢献してくれればよいのだが。。。

H先生の回診は、急いでいたようで、タペンタを一回分スキップするのはいいだろうということだけ話して帰っていった。

9am過ぎ、ベッドで横に添い寝していると1時間ぐらい眠る。貴重な睡眠なので、その間にきたナースには起こさず静かにしてもらったり帰ってもらったり後にしてもらったり。

11:30am、愛犬の容態を父に電話して確認すると、やはり餌も水も口にせず、むりやり抗生物質を口に入れようとするのを拒み、噛み付いたそうだ。動物病院で皮下点滴で入れた水が口からポタポタ落ちるのも気になっていたので、午後からまた動物病院にいって抗生物質を注射してもらおうということに。

妻が口にできるものということで、アイスコーナーの写真をとってくる。

母の弁当。

4pm過ぎ、2日ぶりの下痢便。下剤類を一切なしでちゃんと排便があるのは素晴らしい。その途中で、緩和ケア科N先生から呼び出しを受け、外来窓口のB21へ。

N先生と現在までの状況を整理して、5月の入院以来、夜間に一度も目が覚めずにぐっすり眠れたことがそもそもほとんどないこと、眠れない原因は複数あって、最初の頃と今では異なっている可能性があること、4月の手術で両卵巣を失ったことで更年期障害による自律神経失調症が影響していた可能性を否定できないこと、またホルモン補充パッチをはじめたばかりであること、などなど考慮して、睡眠に効果があったと思われるロヒプノールとレストレスレッグス症候群に効くビ・シフロールを継続し、神経性の痛みにも効くと言われているタペンタの減量と足首の痛みの相関も否定できないのでタペンタはとりあえずこの週末は50mgのまま継続するという方向性で合意。

また、レストレスレッグス症候群(むずむず脚症候群)への対策としてはビ・シフロールだけでは十分でない現状を鑑みると、GABA経路の効果も確認したほうがいいのではないか?新薬レグナイトは使えないか?と自分の考えを伝える。なるほど、ということで、使えるかどうか調べていただけることに。

夕方以降も体調がすぐれない。倦怠感がかなり強いようだ。

8pm、タペンタ。

9pm、フルカリック1号とビ・シフロール、ロヒプノール。追加は2時間たっても効かなければベンザリン2回まで。

シドニアの騎士」を何話か見た後、ベッドで一緒に横になり、腕をさすってあげているとすぐ、10pmに眠りに落ちる。

しかし10:45pmには早くも起き上がり、朦朧とした意識で「座っていい?」と端座位になろうとする。危なっかしいので、やはり離床センサーと四面柵をつけることに。この頻度で起こされるので、こちらも睡眠不足がひどくなってきている。

11pm過ぎにトイレ。

11:30pm、ベンザリン5mg。

1am、しつこく座りたい立ちたい柵を外したい体重測定したいと言われて困ったナースに起こされて、妻の説得を試みているうちに1:30amがきて、2度目のベンザリンが使える時間になったが、この不穏症状がいつも眠剤使用後に起きている気がするのと、そもそも1時間しか効いてないので、とりあえず使わず。結局、トイレに行くという目的で立ってもらい、2amようやく眠りにつく。

しかしまた3am頃に起きたりして、4amには完全に目が覚めたらしい。

愛犬の誕生日

リリカとドルミカムのフラッシュ3回で何とか眠れて迎えた朝。

8am、アンパンマンのアップルジュースとカロリーメイト缶を飲みきったあと、バニラアイスが食べたいというので、売店で買ってくるとそれも完食。ヤクルトも一本飲む。流動食に関しては、結構な量をとれるようになってきている。しかし、相変わらずアンパンなどの固形物はやわらかいものであっても欲しくないようだ。

足首の痛さと倦怠感が主訴で、だるさのせいでうがいや歯磨きもしたくないという。

10am、作業療法士Mさんのマッサージ。

途中でH先生がきて、今日は最初からドルミカムやりましょうということに。

両親に愛犬を動物病院に連れて行ってもらった結果、やはりリパーゼの数値が正常値の4倍ぐらい高かったらしく、予想通り膵炎との診断。制吐剤や抗生物質を出してもらう。今日は絶食し、明日から食事を見なおすことに。

愛犬の誕生日なのに悪いニュースで残念だが、人間にとっての意味しかない誕生日なんかより一日でも早く処置できることが大事なので、動物病院へ連れて行ってもらってよかった。

理学療法士Tさんのマッサージ。

父と動物病院の順番待ちを交代してもらった母がやってくる。今度は自分の夕食も一緒にもってきた。また、妻が缶入りカロリーメイトを好きなことを知った父が、少しでも飲めるものがあればということで、明治のメイバランスの全フレーバーを買ってくれていた。

6pm、H先生がきて、ホルモンパッチをリクエスト、開始することに。

母と一緒に夕食。

7pm、ビ・シフロール錠0.125mg。夜中の多動・不穏症状は、奇しくも母と同じレストレスレッグス症候群(むずむず脚症候群)かもしれないとのことで処方された。これで収まってくれればいいのだが。。。

母にみてもらってる間に吉野湯へ。

8pmに病室に戻ってきて、母には帰宅してもらう。

9pm、H先生の手引でドルミカム開始。

いったん眠りにつくが、30分ほどで動きが出始める。

10pm前、ナースコールしてフラッシュ。

それからほどなくして再び動き始め、端座位で前に倒れそうになるのでナースコール。看護師の支えで横になる。今晩は一番きついと漏らす妻。なんとかしてあげたいがどうすることもできないのがつらい。

以後、0amまでに4度の起き上がりとナースコール。

VAC療法C3D8は初のスキップ、目立つ不穏行動

夜間、7度ほど睡眠薬のフラッシュのため起きるが、それなりにぐっすり眠れたようだ。

8am、睡眠薬の持続をストップ。

9am、なかなかベッド上で屎尿瓶では排尿できず、午前シフトのナース5人がかりでポータブルトイレへの介助をしつつベッドのシーツ交換。

9:30am、昨日に引き続き2度目のフルカリック1号。体温37.1、血圧111/90。

骨髄抑制はほとんど起きておらず、白血球2700と3日前と比べてもすでに回復傾向。したがって今サイクルはG-CSFをうつこともなさそう。

ジュースを飲みたいというので、昨日母が持ってきたりんごと人参のジュースを100mLほど飲み、カロリーメイト缶カフェオレ味も半分以上飲む。

10am、H先生がきて、今回のD8はスキップすることに決定。足首の痛みに対しては、薬の影響を見極めつつ、もう少し先にはリリカを処方することも検討するという。

緩和ケア科N先生がきて、ふたたび睡眠薬の種類を変えてみることに。結果的にこれがH先生の言っていたリリカとなる。リリカの傾眠作用と神経痛の両面に期待することになりそうだ。

妻がエマの続きをみたいというので、U-Nextで最終話までみる。あっけない終わり方だった。

昼、アイスが食べたいというので売店でバニラアイス。3/4食べ、カロリーメイトの残りも飲み干し、さらにジュースも飲む。

母が来てから、一緒にU-Nextで映画をみる。新海誠の「言の葉の庭」「最強のふたり(The Intouchables)」「スラムドッグミリオネア」。「最強のふたり」は、体が不自由となった妻には気持ちよく見れない映画だったかもしれない。こういうところ気が利かない私のことも、妻はよく知っているから、見たくなければ見たくないと言うと思ったが、ちょっと配慮が足りなかったかもしれないという気もする。

7pmからミーティングのためフォンブースへ。

9pm前に戻ってきてみると、すやすや眠っている。8pmに飲んだというリリカとロヒプノールが効いたのだろうか。リリカが短く効いてロヒプノールが長く効く組み合わせということらしい。

母と交代して帰宅してもらい、妻を起こさないようにそっと就寝準備。

しかし9:30pm頃、目をさますとしきりに注射をねだるように。今日の日中は落ち着いていたのだが。。。

一週間ぶりの排便ののち、残便感があったのか計3度、ポータブルに座る。初回の分が、ほぼ絶食状態が続いた割には両手一杯ぐらいの下痢便が出た。これのせいで気持ち悪かったのだろう。

ベッドに戻ってからは不穏な動きが復活し、起き上がってフリーフォールで頭から枕に倒れこんだり、ベッド脇に座り込んで前かがみに崩れ落ちてそのままベッドから落ちそうになったり、動きも激しくなってきて危険を感じたので看護師ヘルプを呼ぶ。

それからも、何度も立ち上がりたいと言ったり、注射をせがんだり、わがままな言動が復活。掛け布団をベッドの柵にかぶせたり、ブーメラン型クッションを持ってきたりと、頭をぶつけないように色々工夫する。

長く続く格闘の末、ナースKさんがH先生に電話してくれ、いよいよドルミカム注射持続投与が確定。持続1.5mL/hでフラッシュ1.0mL、初回フラッシュは2mLからスタート。すると、あっさりスヤスヤ眠る。

この日記を終わってみると11:30pm前。

こちらも疲れ切って就寝。

深夜2am頃、なんとなく気配がして目覚めてみると、妻が四面柵の隙間から足を出してだらんと垂らした状態で、ソファで寝ていたこちら側を向いて座っているのに気が付きギョッとする。目も半開きで、ほとんど意識はない。足で私の脱いだサンダルをたぐりよせ、何とか履こうとしている。

ナースコールすべきか迷ったが、ひとまず様子をみることに。そっと話しかけると、ときどき反応がある。そのうち、アイスティーが飲みたいというので、冷蔵庫から出して渡すと、2-3口飲む。フラフラして後ろや横に倒れて頭を打ちそうなので、眠れないんだったらフラッシュしてもらおうかと言うと、頷いたのでナースコール。

また4am頃にも同じように四面柵のこちら側に足を出して座っている状態になっているのに気がつく。アイスティーと、今度はカロリーメイト缶を飲みたいという。しかし、いま缶をあけたら飲みきれないから明日の朝にしようね、といって再びフラッシュしてもらう。

その後も、こちらが寝ている間に同じような状況になっているのにナースが気付き、対処してくれている気配が感じられたので、計3回ほど同じような状況になったようだ。

厳しい状況が続く。

様子がおかしい

結局、ジプレキサゾルピデムでは眠れなかった。

深夜に何度もトイレに行く。記憶にある範囲だけでも4回。毎回、看護師2人の援助を受けつつ、用足しの後は疲れきってフラフラになる。

4am過ぎ、足首の痛みを訴えるのでマッサージしたあと、モーラステープを貼る。テープがなくなったので2パック追加で出してもらう。

9am、O先生がきて、血液検査の結果はむしろ上昇傾向で白血球が3000近くあったと説明。

9:30am、H先生がきて、また足首の痛みが強くなったことを相談するが、根本的な解決方法は聞けず。まずは睡眠の問題から対処しようということに。

フルカリック1号で高カロリー輸液開始。

10am過ぎ、緩和ケア科N先生が岡山大学の精神科のI先生を連れてこられる。今日の日付や100から7を順番に引いていくなどのクイズを出され、せん妄のような症状があるかどうかを聞かれる。妻は足首の痛みと眠れないことを訴える。日中の精神安定剤や夜間の睡眠薬などを処方してもらうことになる。

ようやく少しづつ食欲も出てきているようだが、流動食からはじめるため、カロリーメイト缶カフェオレ味を一口と、Sunkistのオレンジゼリー。

何度もトイレにチャレンジするが、ベッドで端座位になるだけでフラフラして自力で体勢を維持できない。ベッド上で横になったままちりとり形状の差し込み便器にもトライするが、ガリガリで出っ張ってきた尾てい骨が痛くてできない。疲れてはベッドに戻る、の繰り返し。

2pm、母が病院に弁当をもってきてくれたので、車を1日350円のデイパーキングにとめなおして、今日はしばらく病院にいてもらうことに。

談話室へ行き、1時間ほど仕事。

3:30pm、また不在中に吐いたらしい。やはり、私がそばにいなくなると吐くいう傾向が続いている。それにしても、7日目になっても吐くというのは異常に思える。

その後、足首の痛さからか、落ち着きのなさがひどくなり、ベッドから足を下ろしたり、頭をあちこちに振り回したり、前傾したり後傾したり、(膝を伸ばしたくて)立ち上がりたいと言ったりする。どうも様子がおかしい。

ちょうどH先生がきて、その様子をみて、明日の抗がん剤D8はスキップ、ジプレキサも停止することに。

6pm、病室の母に夕食に行ってきてもらう。母は自分自身、むずむず脚症候群のためビ・シフロールを飲んでいるらしい。

7pm、風呂用具をとりにかえった母と入れ違いで、父が心配して様子を見に来た。

8pm、デジレル25を4錠。痛み止めはタペンタ50mgのみ。

8:30pm、母にみてもらっている間に銭湯に行ってくる。

9:00pm、H先生がみにきてくれ、やはり眠れないので鎮静剤を出すことに。その後、母には引き上げてもらう。

9:30pm過ぎ、ドルミカム10mg/2mL。同時に高カロリー輸液を終了。ベッドの四面柵をつける。最後はH先生がセット。1時間あたり1.0mLのペースで開始。

ありがとう

昨夜10pm頃に飲んだレンドルミンのおかげで、やっと5amまで連続で眠れたようだ。

ただ、9pm頃にグッドミンを飲んだあと、1時間ぐらいで目が覚めて、そこで200ccぐらい嘔吐。緑色の液体にわかめが混じっていたらしい。そのあとすぐレンドルミンを飲んだらしい。

今朝は吐き気は少し落ち着いているようにみえるが、これは間違いであることが後ほどわかる。歯磨きをする。

7am、Sunkistのオレンジゼリーを食べる。これを食べるだけで体力を使い切り、お腹いっぱいという。グラノラ&ヨーグルトには手を付けられず。

昨日吐いて汚れた電気毛布を交換してもらい、小便をしようとするがベッドから起き上がるだけで一苦労、今度は排尿が終わってから倒れこむような感じになったので、もう一人ヘルプの看護師を呼んできて二人がかりでベッドへ。

妻が自分から点滴で輸液して欲しい、といい、グルアセト35注で輸液開始。

8am、タペンタ。

2度目のトイレのあとも、また吐きそうになるが何とかこらえる。

1pm、バニラアイスを食べたあと、1:30pm、とうとう嘔吐。

2pm、母が弁当を持ってきてくれる。一度、病院まできたところで弁当を忘れたことに気がついて、また取りに戻ったそうだ。片道40分かかるのに2往復、大変だっただろう。

2:30pm、清拭してもらうが、そこでまた疲れきってしまう。ちょうどそのときH先生がこられるが、清拭で病室がバタバタしていて話せないので引き返してしまう。

3pm、緩和ケア科N先生が栄養士の人たちを連れてきてくれるが、体調が悪くて食事の話をできる状態ではないので機会を改めることに。とりあえず今日からタペンタを半分の50mgに減らし、ジプレキサを復活。

4:30pm過ぎにふたたびH先生がきて、高カロリー輸液を短期間だけ開始すると説明。倦怠感と吐き気がまだあるが、ビンクリスチンはほぼ影響がないだろうとのことで、明後日のD8の投与は実行することになりそう。倦怠感にはステロイドということで、リンデロンを出すのも手だが、長く続けると感染などのリスクもでてくるのであまりやりたくないとのこと。とはいえ、終わりの見えない嘔吐のせいで衰弱しきっていることを知ってもらうため、妻の体を見せ、やせ細ってしまったことを説明する。抗がん剤の効果で、お腹の腫れが今回の抗がん剤コースで一気に引いてきたような気がする、ということも伝え、触診してもらう。

5pm、理学療法士Tさんがきてマッサージをしてくれる。疲れているのか、マッサージしてもらいながらこっくりこっくりしている。その間に、私は銭湯へ。

6pm、風呂上がり、片原町のマルヨシセンターで朝食用のシリアルを買って帰ってくる。

すると、また不在中に妻が吐いたようだ。どうも私が不在中に吐くパターンが多いことに気がつく。

妻が、「Kちゃんが背中をさすってくれていると安心する」というので、狭いベッドに一緒に入って腕や背中をさする。

そして、昨日から考えていたことをちゃんと伝えようと口を開いた。

「昨日、Iがありがとう、ありがとうって言ったときに、おれもありがとうって返したやろ。そんで、Iがなんで?ってきいてきたやろ。あのときすぐに返事できんかったけど、あれから自分でもなんでそんな言葉が出たんか考えてみたんや。」

いったん呼吸をおいた。

「ひとはみんな、好きな人できたり結婚したりするやろ?それ自体もまぁ幸せやけど、普通のことやん。けど、今回のことがあって、自分の人生の何よりもIのことが大事って気がついたんや。そこまで大切に思える人と出会えるってことは、そうそう滅多なことではないと思う。自分ラッキーやなって思って、それで思わずありがとうって言葉が出たんやと思う。」

するとそれを聞いた妻が声を上げて泣きだしたので、

「泣いたらあかん、疲れるで」

というと、無き声で「はい」とかえしてくる。

妻は、私の人生が大きく狂ったことは自分のせいだと思っているに違いない。誰よりも重い痛みと苦しみと不運をぜんぶ一人で背負い込んでいてなお、巻き込んでしまった他人のことを気遣うような人なのだ。

だからこそ、私が仕事や生活のすべてを投げ出し、いつ終わるとも知れない病室で24時間を一緒にすごす生活を選択したことを、夫としての義務感からやっているのではなく、自らの希望で、こうしたいと思ってやっているのだということを伝えたかった。妻が感じているであろう罪悪感の呪縛を解き放ちたかった。

このやりとりを通じて、私の思いは伝わったと思いたい。

7pm過ぎ、安心したのか、妻がぐっすり眠ってる間に夕食。

8:30pm、タペンタ50mgとジプレキサ

9pm、やはり寝付けないのでゾルピデム