ある卵巣がん患者配偶者の記録

2015年1月から9月までの戦いの日々

妻を喪って

妻が亡くなってから、1ヶ月以上が経ちました。

病気の発覚から約8ヶ月の闘病の末、2015年9月6日、40歳での旅立ちでした。

本人の希望により、4月のアメリカ帰国後に再発してからのことはごく一部の人以外には伏せていたので、このブログでは3月12日のポストを最後に今日この記事を書くまで、ずっと更新が止まっていました。

このブログを読んで、あれからすっかり元気になって暮らしているものと思われていた方にとっては突然のご報告となることをお許し下さい。

私にとって妻の存在はあまりに大きく、人生の伴侶というより人生の全てでした。ともに過ごした時間は互いの生家の家族よりも長く、高校を卒業して京都の大学に通い始めてすぐの頃に出会ってからの21年間の何もかもを一緒に見、聞き、経験してきました。

これまで毎日欠かさず詳細につけてきた闘病中の日記が、いま手元に残されています。妻の後半生すべてを最後の一呼吸まで見届けた者の責務として、「怒涛の」としか表現しようのないこの半年間のできごとを、日付をさかのぼって埋めていきたいと思います。思い出すのもつらい記憶ですが、愛に満ちた濃厚な日々でもありました。

まず、これまでの経緯を整理してみます。

  • 2014年12月31日にアメリカから一時帰国(それ以前の経緯
  • 1月
    • 1月5日、初診、卵巣がん告知を受ける
    • 1月16日、入院、開腹手術にて左卵巣卵管摘出(妊孕性温存)
    • 1月27日、退院
  • 2月
    • 2月12日、「ステージ1aの類内膜腺癌グレード1+未熟奇形腫グレード1」との診断確定
  • 3月
    • 3月2日、PET-CT検査で
    • 3月5日、腫瘍マーカーもほぼ正常化したので経過観察に

ここまでが、これまでブログで公開してきた治療の経緯でした。

このあと、以下のようなことが起きました。以下の内容を、過去の日付に遡って詳細にブログに書いていく予定です。

  • 3月23日、アメリカへ帰国
  • 保険会社から日本滞在中に一方的に契約をキャンセルされていたので、猛烈に抗議して再契約、すぐに定期健診のため婦人科クリニックを探し、4月14日に予約を入れる
  • 4月に入ってから腰痛をうったえはじめる
  • 4月9日、鍼治療に行ってみるも改善せず、日ごとに痛みが強くなっていき我慢できないレベルに
  • 4月14日、婦人科クリニックで卵巣がん再発を告知され、アメリカで緊急手術を受けることに
  • 4月16日、入院中のヘルプのため母に航空券を手配し、飛んできてもらう
  • 4月17日、入院、右卵巣卵管・子宮・骨盤内リンパ節を切除するが、大動脈を巻き込んだ大きな腫瘍がとりきれなかったと言われる
    • このあとは化学療法で対処するしかないが、病理診断が確定しないと治療方針も決まらない
    • 執刀医の印象では、これは卵巣がんではなく、おそらく悪性リンパ腫ではないかとのことで、正確な病理検査のため、日本の主治医から1月に手術したときの切除標本の現物を至急送って欲しいと言われる
  • 術後2-3日の経過は悪くなく、腰の痛みの原因となっていた部分の摘出には成功したのかと思われた
  • しかし4月21日、退院予定日の早朝になって、妻がうめき声をあげて痛みを訴え始め、退院は不可能と判断される

ここから担当が婦人科の執刀医から腫瘍内科医に変更となり、ケースマネージャもアサインされ、医療用麻薬をどんどん増量していきながら、なかなか出てこない病理診断の結果を待つ日々がはじまりました。

日本から飛んできてくれた母には、自宅で飼っている犬の世話をしてもらいつつ、病院で食べる2人分の弁当を作ってもらったり、日本への本帰国に向けて荷物の片付けを進めてもらったりしていました。母はアメリカで車の運転をするのが怖いので、ラスベガス在住の日本人の友人たちに助けてもらって、買い出しに連れて行ってもらっていました。

私は、入院初日から寝袋で病室に寝泊まりしながら、病室と自宅をビデオチャットでつなぎっぱなしにして、いつでも声をかければ相手に届くようにしていました。(この病院はWiFiを無料で提供してくれていました)

いずれにせよ長期間の化学療法が必要となるのは確実なので、4月24日には胸から点滴できるようにCVポート埋め込み手術も行いました。

そして4月27日、日本から届いた原発巣の病理標本をみたところ奇形腫から高悪性度の肉腫が発生していて、もしこれが転移したのならあと1年もたないだろうと言われました。また、かなり特殊な事例のため、確実な診断を行うため州外の専門機関に病理標本を送ってセカンドオピニオンに出しているので、結果が出るまでにさらに時間がかかると言われました。これを聞いたとき、強烈なショックを受けると同時に、どんなことがあっても妻を日本に連れて帰ると決意したのでした。

しかしタイミング悪く、29日から日本はゴールデンウィークに突入、いまから予約を入れても主治医のいる病棟へ入院できるのは最短で5月11日と言われました。

アメリカで暮らし始めて10年、深く根を下ろしてきて、ラスベガスの住居は借家ではなく2年前に購入した持ち家でした。病院で寝泊まりする付き添い生活をしながら、空いた時間で引越し業者の手配からパッキング、不要品の処分・寄付、大掃除、賃貸で貸すための準備、これから請求されるであろう巨額の医療費に備えてお金を借りる手続き、犬を連れてかえるための検疫の準備などを同時並行で進めていきました。その間、トラブルも多々ありながら、母や友人たちのヘルプもあって、何もかもが一日の猶予もないギリギリの状態で進行していき、最終的には5月4日に退院し、なんとか5月7日の早朝便でラスベガスの我が家をあとにして日本へと発つことができたのでした。

そのあとは、なんとか週末を耐えぬき(このとき、本人は気づいてませんでしたが左鎖骨上部リンパ節が大きく腫れていて、こんなところまで転移しているのかと恐怖を感じました)、5月11日の月曜日に予定通り入院することができました。

ちなみに、病理標本を送った州外の専門機関というのは全米有数の医学専門大学院大学であるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)だったのですが、この時点でまだ病理検査の結果は出ていませんでした。

以下、続きます。

  • 5月11日、入院、アメリカでの病理検査の結果を待ちつつ、痛みのコントロール開始
  • 5月15日、造影CT撮影
  • 5月16日、やっとUCSFから病理の結果が届き、極めて稀な「横紋筋肉腫」との診断
    • またCTの結果、骨盤部に巨大な腫瘍があり、加えて肝臓や肺に多発転移していることがわかる
  • 5月18日、腫瘍に圧迫されて尿路が閉塞しないよう、尿管ステントを留置
  • 5月20日、横紋筋肉腫をターゲットとしたVAC療法1コース目を開始
  • 5月28日、一時退院に向けたリハビリ開始
  • 6月10日、VAC療法2コース目
  • 6月25日、40歳の誕生日を迎え、初の外出
  • 6月27日、二度目の外出、ランチへ
  • 6月28日、幼なじみの友人たちのお見舞い、この頃が一番調子が良かった
  • 7月1日、VAC療法3コース目、ここから体調が下り坂に
  • 7月7日、精神科の回診開始
  • 7月16日、神経内科の診察
  • 7月21日、造影CT撮影、思わしくない結果に泣き出してしまう
  • 7月22日、VAC療法4コース目
  • 7月28日、国立がん研究センターセカンドオピニオン
  • 7月29日、自費診療による抗PD-1抗体オプジーボ(一般名:ニボルマブ)投与の準備開始
  • 7月30日、1ヶ月ぶりに車椅子を出して病室の外へ、シャワーも浴びる
  • 8月1日、右太腿の痛みを訴え始める
  • 8月7日、右膝の感覚がなくなる
  • 8月13日、花火大会を病室から鑑賞
  • 8月17日、VAC療法5コース目
  • 8月28日、スイスからオプジーボが届く
  • 8月31日、持続硬膜外ブロックを導入
  • 9月1日、分子標的薬ヴォトリエント(一般名:パゾパニブ)服用開始
  • 9月2日、オプジーボ投与
  • 9月4日、何も飲めなくなる
  • 9月5日、体温・血圧低下、下顎呼吸、せん妄あり
  • 9月6日、2:30am、呼吸停止

以上のような経過をたどっていきました。

私はこの間ずっと病室のソファで寝泊まりしながら妻のそばで24時間を一緒に過ごす付き添い生活を続けていました。というのも、妻と私は、このいつ終わるともわからない入院生活を「ただ苦痛を耐え忍ぶだけの闘病の日々」ではなく「楽しいことやつらいことがある、いつもの日常生活の一部」としてとらえ、一日一日を大切にすることにしていたからです。

病室から出られない妻のために、モバイルルータでネット環境を構築して動画ストリーミングサービスを使って映画やアニメを一緒に観たり、私が外出するときにはiPhoneビデオチャット機能であるFaceTimeを使って外の風景を中継して、まるで一緒に出かけている気分でいられるような工夫もしました。

医師や看護師など医療従事者は、主として患者に苦痛が発生しているときにナースコールで呼び出されるので、入院患者は一日中苦しんでいるような印象を抱きがちかもしれません。しかし、1日24時間あれば、ぼーっとしてたり、不機嫌になったり、大笑いしたり、真剣に考え事をしたり、そしてちょっぴりほっこりする瞬間があったりするのです。ずっと患者と一緒に寄り添う立場になってみると、そういう別の真実が見えてくることがあります。

そして、そんな「まるで普段どおりの姿」を見ているからこそ、もう終わりが近いなんて信じられず、最後の最後まで不合理な希望を捨てきれず、あきらめきれないのだろうとも思います。

私はこれから、妻と過ごしたこの8ヶ月の、圧倒的な質量をもった感情の波に揺り動かされ続けた「日常」を詳細に書きつけていくことで、「妻のいなくなった世界」との向き合い方についての答えを探そうとしているのかもしれません。

もしかしたら、こんな詳細な記録を書き綴ったところで、そんなものを必要としているのは自分だけかも知れません。しかし、自分のためにこそ、この時期に起きたこと・感じたことを残しておきたいと思うのです。